花を見上げてブラジル街歩き  サンパウロ市など      


・時期
季節は日本と逆で4月は暦では秋となるが、日中は残暑が強くまだ夏の様相


・交通 
サンパウロ、リオへは現在、日本からの直行便はなくアメリカ合衆国か中東経由。今回は行きは関空ードバイーサンパウロ、帰りはリオードバイー関空のエミレーツ便を利用した。ブラジル内の移動は、長距離バスはあるが、国内航空が一般的。サンパウロ、リオの中心部では地下鉄が便利で安価
   ← =2015年4月9〜17日取材

サンパウロのセントロ(旧市街)に建つカテドラル・メトロポリターナを包むように咲くクアレズメイラ
 
 
  地球の裏側・ブラジルのごく一角、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロといった街を4月8日〜17日にかけて回った。今は暦では秋に入っているが、昼の陽射しは、まだ夏そのもので、トリペイラ(火焔樹)、パイネイラス、クアラズメイラなどの鮮やかな花が、にぎやかな街かどを彩っていた。

  地球の裏側の道沿いに明るさと開放感

 
 人口1900万人を超える南半球最大の都市で、ブラジルの経済・文化の中心となっているサンパウロ。到着翌朝、メインストリートにあるパウリスタ大通沿いにあるサンパウロ美術館あたりを散歩した。標高800mに広がるサンパウロの街でも、パウリスタ大通は稜線のように一番高いところを南北に走る。そのため大通りに出るには、かなりきつい傾斜の坂を上がらなければならない。しかし、歩いていてもしんどいという気にはならない。

 一つには、石畳の歩道に添って花木を中心に街路樹がずっと続いていること。よく目立つのは舞えるような朱色の花が咲く火焔樹の花。20mを超す高木で南半球の空に向かって伸び、高層化の進むサンパウロのビルにも伍している。歩道に落ちている花を拾うと、かなり大きく、チューリップの形をしている。

 五弁の薄紅色の花も見かけた。桜を思わせる色合いで、日系移民の人たちからは「ブラジル桜」と呼ばれて親しまれている。カーニバルから復活祭までの間の四旬節(クアレズマ)に咲くことからクアレズメイラと呼ばれるノボタン科の赤紫の花も、セントロ(旧市街)や東洋人街の建物を飾っている。ブーゲンビリア、キョウチクトウ、ハイビスカスなど日本でおなじみの夏の花にも一足先にお目にかかれた。花期はずれるが、ビワの木もあり、これはカキと同様、日本から伝えられたのかもしれない。ブラジルの国花、イペは花の色によって360種類もあるそうだが、本命の黄色の花のイペは9月に咲くそうだ。

   ◇青空いっぱいに葉を広げる街路樹

 花が咲いている木も、咲いていない花も、街路樹は思い切り枝を伸ばし、青空いっぱいに葉を広げている。住民の落ち葉の苦情などでぎりぎりまで刈り込まれ、小さくなっている最近の日本の街路樹とはだいぶ違うようだ。戦後移民の日系2世の女性ガイドさんに尋ねると「サバンナ気候なので乾燥しやすい。少しでも潤いを与え、強い日差しを緩和するには豊かな葉の街路樹が欠かせません。木の枝を切ったりするのには役所が大変慎重で、必要な時でも時間がかかります」とのことでした。実際のところ、これだけ勢いのある木々を剪定するのは難しい。法律がどうこういうより、住民にとって街路樹は快適な暮らしに大切な存在。朝早くから道沿いの事業所の従業員らが出て落ち葉を掃除していた。

 アマゾンをはじめ圧倒的な自然が残るイメージがあるブラジルだが、歴史的にはそうではないようだ。ブラジルは「木の名前が国の名前になったおそらく唯一の例」。ポルトガル人は、インディオにならってパウ・ブラジルという木からこれまでヨーロッパで出せなかった赤い染料をつくられることを知ったが、乱伐しすぎて絶滅寸前になり、今復元が図られているという。リオでもかつてコーヒー園造成で伐採された植生の自然林への再生が進められているという。
 
  ◇朝市、ストリートアート、行き交う人々

 街中の道を歩いていると、広場のようにいろんなものに出会える。サンパウロによっては「木曜はこの街区、金曜はこの街角」というように決まった日に朝市が立つ。木曜は市営サッカースタジアムのまわれいに店が集まり、バナナだけでも4種類あるなど多種、多様な果物や野菜が集まってみるだけでも楽しい。金曜の朝はイビラブエラ公園からパウリスタ大通への坂を上がったが、途中横道に入ると市が立ち、日系人の女性が鮮魚の店を出していた。パウリスタ大通でも路上の随所にスタンドがあるので便利だ。

 ちょっとした壁にもストリート・アートが描かれている。好みもあるがなかなか力作が多いようだ。「ギャング集団が自分の『シマ』を示すため。壁にスプレーで絵を描く子音もありますが、こうした犯罪者の中でも才能のある者は矯正教育の中で技法を習わせ、ストリート・アートの画家として自立させています」とのことなので、レベルも高いはずだ。公衆電話も、青や黄緑の傘がかぶったような明るい斬新なデザインだ。携帯電話の普及でどれだけ使われているかわからないが、「大きな耳」と呼ばれるこの公衆電話、街角の風景を引き立てている。

 そして、何よりも路上で出逢う人々だ。日系人をはじめあらゆる人種をルーツにした人が歩いているので、異邦人としての気後れはない。「治安が悪いので歩くのは控え気味に」といわれているセントロ(市中心部の旧市街)も昼間は明るく賑やかで、拙い入門ポルトガル語で道順を尋ねても、みな丁寧に教えてくれる。旅行者に限らず見知らぬ人どうしの垣根は低いようで、赤ちゃんでもいるものなら、周囲の人が自然に声をかけて盛り上がるのが普通だった。

   ◇家庭果樹園でブラジルの豊かさ体感
 サンパウロから南西に移動、ウルグアイ、アルゼンチンに国境を接したリオグランデスール州のポルトアレグレ近郊に住む親類を訪ねた。1954年に神戸から船でブラジルに渡り、アマゾンやサンパウロでも仕事していたが、今はブラジル人の連れ合いと悠々自適。その母や妹の家と合わせ6000平方mの庭を見せてもらった。百日草、ダリア、極楽鳥など華やかな花々が咲き、各種のランもそろっている花園だが、3日間滞在する身としては豊かな果樹がありがたい。大きな草本のバナナではぎっしりと実がつき、その下には花が見える。オレンジは実がなりすぎてほったらかしなので、こちらで勝手に2,3個もいで食べると、さっぱりした酸味がいい。園でとれたアセロラの実をしぼったばかりのジュースには、缶入りでない野趣があった。

 大型のひょうたん形の緑の実が次々垂れ下がるシュシュを見ていると、園主がさっそくスライスして昼食に出してくれた。後で聞くと、中南米原産のシュシュは薩摩経由で日本に入って来たため隼人瓜(はやとうり)と呼ばれ、温かい地域で栽培されているそうだ。姉妹の祖父は第1次大戦前夜の混乱期にポーランドを出てブラジルに移り、すぐれた腕の大工だった父と母はこの地に移って自力で家を建て、広い庭をととのえた。

 「外で買ってくるものより、自分の庭で自分のつくったものを自分で料理して食べるのが一番です。ほしいものは何でもできるので、ブラジルは本当に豊かでいい国です。ただし政治は別ですが…」と園主さん。政治についてはよくわからないが、ブラジルの土地の豊かさと、人々の明るさ、温かさ。これはしっかりもらってきた。
                        
         (文・写真 小泉 清)
      
   
 ★ 間近に大作、充実のサンパウロ美術館 =2015.4.10取材

    
聖地のマラカナン・スタジアムで監督席に =2015.4.16取材

    移民船出の地・神戸で国花イペ満開 =2015.4.26取材