猪名川左岸のむら襲った焼夷弾 大阪府豊中市 上津島・今在家澤田作哉さん自画像    
 
  猪名川沿いの低湿地に田畑が広がっていた大阪府豊中市上津島(こうづしま)・今在家(いまざいけ)・利倉(とくら)地区。当時は南豊島村だったこのあたりに1945年6月15日に米爆撃機B29の空襲があり、大量の焼夷弾を投下、20戸を超す家が全焼、二人が犠牲になった。
 これまで記録が少なかったこの地域の空襲の実像を、豊島西郷土史研究会が体験者からの聞き取りをまとめて発刊、4月14日には、空襲の足跡を伝える場所を案内していただいた。

◇「残された時間わずか」体験聞き取り本に

   フィールドワークには市民グループ「豊中に平和と人権の資料館を求める会」から7人が参加。まず上津島センターで同研究会の南川充男さんから経過の説明があった。南川さんらは上津島在住の元小学校長久保雅敏さんの志を受けて地域の歴史研究を開始。「戦争や空襲を体験された方々から直接話を聞ける時間がほとんど残されていない」ことに気付き、2016年から2022年にかけ聞き取りを重ね、手記を寄せてもらった。

 以前に手記を残していたり話を聞いていた人を加えて16人の証言が集まり、「昭和20年6月15日 豊中空襲(上津島・今在家・利倉の記録)」=写真=として2022年8月15日に発刊された。聞き取り後に逝去されたり、取材ができなくなった人も多く、時間的にぎりぎりの仕事だった。

 研究会会員で神戸学院大博士課程の木田信正さんは、「江戸時代中期には池田から酒・米・木炭を猪名川の水運で輸送する『ロードいながわ』が復活、猪名川左岸(豊中市側)と右岸(尼崎市側)は一つの文化・経済・生活圏をつくっていました」と強調。猪名川右岸の冨田(尼崎市)~左岸の上津島~曽根と焼夷弾を落としていった6月15日の空襲を知るうえでも、重要な視点を示された。

◇防空壕飛び出し逃げ無事、柿の木が身代わり 

  このあと上津島・今在家の空襲の足跡を歩いて探訪。研究会会員の小畑義宏さんを先頭に、上津島・今在家連合会会長の丸山均さんが加わり案内いただいた。

 まず、西田稔さん(81)方で焼夷弾による火傷跡が残る柿=写真=を見せてもらった。「明治10年生まれの祖母が、子どもの時すでに大きかったと話していたので、樹齢200年はあるでしょう」という西田家の歴史を見続けてきた木だ。

 この日の焼夷弾投下で、家も納屋も政府管理米を保管していた蔵もすべて焼けた。一家と尼崎から避難していた親戚の9人が庭の防空壕に入っていたが、「すぐ横まで焼夷弾が飛んできて8歳のいとこが『熱い熱い』と叫んでいた声は、はっきり覚えています。今も世界で子どもが空襲を受けていることを聞くと胸が痛みます」と西田さんは話していた。

 当時13歳だった姉の垣内愛子さんらには鮮明な記憶があり、聞き取りに「みんなで防空壕を飛び出し、音を立てて燃えている麦畑のそばの道を手を取りあって逃げ、猪名川の堤防際の竹藪にふるえて泣きながら逃げ込んだ」と話していた。「わが家では誰一人怪我もありませんでしたが、柿の木が身代わりとなってくれました」。

 西田さんは、「本屋から燃え上がった炎は柿の木に燃え移り、幹の中身まで黒焦げにしました。それでも外の皮がしっかり守ってくれたんです」と、いとおしむように黒ずんだ焼け跡を示した。「畑の方に根を延ばし養分を吸収してますます元気で、秋には実をつけ干し柿にしています。植木屋さんに剪定してもらい、ずっと大切にします」と語った 。

◇飛行コースの下すべて…燃え上がる家、麦畑

 南へ進むと今在家に入り、専光寺(浄土真宗本願寺派)がある。戦争中は130m南西の旧猪名川のほとりにあった寺は、空襲で鐘楼と山門を除く本堂ほかの堂宇が全焼。当時小学1年だった東田重治さんは聞き取りに「今在家の大事なものを預けている家の蔵が燃えたので、皆で消し止めようとした。次にお寺の本堂が燃えだしたので『お寺が大切』と井戸の水で消そうとしたが、あっという間に燃え広がった」と話している。火勢のすさまじさと、当時の地域での寺の存在感がうかがえる。 
  東田さん宅の「わらぶきの屋根を突き破って1階に焼痍弾が落ちてきたが、たまたま実家に戻っていた叔母が手でつかみ外に投げ出し、火傷を負いながら家を守ってくれた」話には驚嘆する。

 被害戸数の集計にずれはあるが、上津島は60戸中18戸、今在家は20戸中10戸が全焼。丸山さん方を訪ねていた大阪空襲経験者の男性が門前で死亡、村外の男性が猪名川堤防の竹藪で亡くなり、決して軽微と言えない被害だ。

  15歳だった市原衆治さんは、聞き取りに「飛行コースの下は、道路、川、畑、竹藪であろうが全部に落ちた」と語っていた。「焼夷弾で周りの家や刈り取った麦が燃えて、空が煙で真っ黒になって雨けむりになり、黒く熱くなった雨が降ってきた」と東田さん。(「当時は二毛作で7月に田植え。6月に大麦小麦を刈り取り、架けて乾燥していたので燃え広がった」とうかがった)。農村地域にも、膨大な焼夷弾が所選ばず投下されたのだ。

◇空襲見つめた火の見櫓の保存策探る

  尼崎市との境で引き返して上津島に戻った。通りを北上すると上津島公園。地元では「お宮公園」と呼ばれ、「住吉神社旧跡」と刻んだ石柱が立つ。大昔は海に近く、長く水運の拠点だった上津島の鎮守は住吉神社だったが、明治の神社合祀で原田神社に統合され、公園北側には原田神社奉拝所が設けられている。

 公園の真中の建物に「上津島第一町会青年会場」との看板が掲げられていた。明治5年に有斐小学校が建てられたが、上津島出身で大阪日赤病院の看護婦総監督を務めた小畑愛さん(1879~1958)が「青年会場」として建て替えたと地元で伝えられる。小畑さんは日中戦争が拡大していた昭和14年(1939)に退職後住んでいた曽根で傷痍軍人の結婚相談所を開くなど、銃後を支える活動を積極的に続けていた女性。この「青年会場」がどのように使われていたか、相談活動もなされていたのかはわからないが、看板の名前だけでも「青年会場」が残っている例は珍しい。現在は地区会館として、自治会の会合などで利用されているという。

 公園の入口右手に立派な火の見櫓があった。戦前に建てられ、「大阪大空襲第1波の3月15日、半鐘に上がって空襲を受けた十三の方を見た」と市原さんは語っていた。
 ただ地域の防災を担ってきた消防団の火の見櫓も老朽化のため安全面が懸念され、解体される方向になっている。一方、「空襲をはじめ地域を見つめ、人々を守ってきた櫓の部分だけでも下ろして保存できないか」という声が地元にあり、豊中市と協議を進めるとしている。

◇田を埋め立て飛行機部品工場の社宅

 公園から北東方向の住宅地を見ながら、「昭和18年ごろ、このあたりの田んぼを埋め立てて近くの軍需工場で働く人の社宅が建てられました」と説明を受けた。伊丹にあった前田金属工業と豊中にあった理研アルマイト工業で、飛行機部品の製造を担い、京都の織物工業の従業員が社宅に住んで工場に通ったという。

 「この社宅を米軍が把握して標的にした可能性は?」とも考えられるが、空襲被害の記録や情報はないという。かなり広い用地で何百人もの人が住んでいた模様だが、地元の人たちとの交流はなく、戦後すぐ引き上げたこともあり、社宅の実態などは明らかになっていない。それでも、豊中の農村地域が戦時の軍需産業を支える地となっていった史実は興味深い。

◇焼夷弾直撃の墓石、共同墓地に残る

 最後に府道北側の上津島霊園に参拝した。ここも猪名川改修によって旧猪名川河川敷から移転してきたが、元の墓地で焼夷弾の直撃を受けた墓石=写真=が移され安置されている。墓石の上部ははっきりえぐられ、焼夷弾の威力を伝えている。丸山さんは「墓地移転に合わせて墓を新しくしたが、ご先祖から受け継いできた墓石を廃棄するに忍びないと置いておいたのでしょう」と推察するが、結果として戦火を留める貴重な遺構が残された。

 霊園入口に戦没者の墓が7基亡くなった順に並んでいる。昭和13年4月の日中戦争での戦死者に始まり、最後は終戦目前の7月11日に姫路陸軍病院で戦病死した増田光夫さん。和菓子職人で結婚1年後に招集され、行年26歳だった。

 長男の増田冨夫さん(78)は終戦直後の11月に生まれ、母の実家近くで育った。「人生のいいとこを経験できないまま戦病死した父、ひとりで働いて育ててくれた母のことを思うと、戦争を扱った映像は見たくも聞きたくもない」。そう語りながらも、聞き取りの中で「国のために戦って亡くなった戦没者の墓は永久に残してほしい。そして、戦争があったことを忘れないでほしい」と結んでいた。

  大阪の一角に刻まれた戦争の痕跡。南川さんは「地域の課題を重ね合わせながら、地元の人から寄せられた写真などを生かして調査を進め、子どもたちにつないでいきたい」と話している 。
 =2024年4月14日、5月29日取材 (文・写真 小泉 清)

★空襲の猛火耐えた柿の木、79年目の秋も実り2024.10.16取材
  

 ◇「子供たちに伝えておきたい 昭和20年6月15日 豊中空襲(上津島・今在家・利倉の記録)~体験者からのメッセージ~」 調査・編集 南川充男、小畑義宏、木田信正 2022年
 
豊中市立図書館、大阪府立図書館などで所蔵。再版を検討中。 
 「習字の半紙替りにする新聞紙がなかったので、砂場の砂を砂糖の箱に入れて、割りばしで字を書いた」、「グラマンに撃たれないおまじないに、マッカーサーの人形を麦わらでつくった」など戦時下の小学生の体験が多く寄せられている。

  
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