空襲の猛火耐えた柿の木、79年目の秋も実り 大阪府豊中市澤田作哉さん自画像    
 
  昭和20年6月15日に米軍の空襲を受けた大阪府豊中市上津島。今年4月に歩いた時、西田稔さん(82)方の焼夷弾による火傷跡が残る柿の木に強く印象づけられた。半年たった10月16日に立ち寄ると、色づいた柿の実がいっぱい実っていた=写真左。

 長引いた酷暑で柿の実りが悪いというニュースも聞いていたが、庭におられた西田さんに伺うと例年通り10月に入ると色づきが進んできたそうだ。ただ、農薬を使わないためかなりの実が虫害で落ちてしまったとか。甘柿は少なく、大半は渋みが勝った実なので干し柿にするという。「家族で食べるくらいの量ですが、冬場に楽しめる味で、正月のお飾りにできるので毎年、実がなると嬉しいです」と西田さん。

 当方にも柿を取っていただいた。持ち帰って「渋いかな」と思いつつかじったら、ほんのり甘い。市場に出る甘柿ではないが、すっきりした甘さでいいとそのまま食した。空襲の猛火を耐え抜いて79年、樹齢200年を超えて実をつける柿の木の元気をもらった気もした。

◇校区めぐりの小学生、黒焦げの幹に触れ…
 
 今年の6月11日には、柿の木にも西田さんにとっても初めての経験があった。地元の豊島西小学校2年の児童50人余が、平和学習の校区めぐりで西田さん宅を訪問。柿の木の前で西田さんや姉が焼夷弾攻撃から逃れた話を聞いた。

  西田さんのすすめで、子どもたちは炎で黒焦げとなった柿の木の幹をさわり、空襲のもたらした傷跡と木の生命力を体感していた。「平和な世の中をみんなの力でつくってください」。最後に西田さんは子どもたちに、こう呼びかけた。


(校区めぐりでは豊島西郷土史研究会の南川充男さんらが戦争の痕跡を案内、空襲で鐘楼を除く建物を焼失した専光寺では、住職さんの話を聞いた)。

 ◇原田神社秋祭り宵宮、最大の布団太鼓誇る 

  柿の実がなる10月は、西田さんにとって心が躍る祭の季節だ。毎年10月9日夜に岡町の原田神社獅子神事祭宵宮に宮入りする
上津島の布団太鼓=写真右、左。各氏子地区からは布団太鼓、だんじり、神輿、神額などが繰り出すが「布団太鼓を繰り出す4地区の中でも上津島のものが一番大きい」というのが上津島の人々の誇りだ。

 原田神社から最も遠い氏子地区の上津島だけに、布団太鼓はトラックで近くまで運んでいるが、高さ制限からそのまま搭載できず解体、組立が必要。担ぎ手を含め70人は人手がいるという。「日付が決まっている宵宮は平日の年が多いので、氏子に限定せず、上津島に住むようになった人、出身者、縁のある人に早くから参加を呼びかけています」と西田さん。若いころから祭りに参加し上津島奉賛会の会長も務めた西田さんは、今年も原田神社秋祭り実行委員会の副会長として、宵宮の総合司会を担当した。

 ◇地域ぐるみで伝える地元の歩み

 今年も宵宮の翌日、布団太鼓が地元の幼稚園と小学校をまわって太鼓を披露した。原田神社の獅子が上津島に巡行する10月3日は大雨だったため、児童らが9日朝に原田神社上津島分祀を訪ね、宮入りに向かう前の布団太鼓の様子を見学、地域ぐるみで子どもたちに祭りの伝統を伝えている。

 「祭りがずっと続けられてきたこと、みんなが大変な思いをした戦争があったこと、地元の歩みを子どもたちに知ってもらえれば…」と西田さんは願っている。=2024年10月16日取材 (文・写真 小泉 清)
  

★猪名川左岸のむら襲った焼夷弾=2024.4.14、5.29取材