| ★子どもに「生きること」伝えた浩三兄ちゃん…姪・庄司乃ぶ代さんの思い出 |
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各地の梅も咲き進んできた2月12日、詩人・竹内浩三の姪に当たる庄司乃ぶ代さん方を訪ねた。弟の浩三の母親代わりとなり、作品を守り世に出すことに力を尽くした松島こうさんが2014年5月に逝去され、浩三に接した縁者は今、こうさんの長女の乃ぶ代さん一人。叔父というより「浩三兄ちゃん」として可愛がってもらった浩三の思い出からうかがった。 乃ぶ代さんは1938年(昭和13年)8月生まれ。父の松島博さんが神宮司庁に勤めていたことから伊勢市吹上の竹内家別宅で育った。この時、浩三は宇治山田中学の4年生。翌年に父の善兵衛が死去、浩三は1940年春には日大に入学して上京するが、ちょくちょく帰郷し、1944年(昭和17年)10月に入営するまでは乃ぶ代さん、実知代さん姉妹とよく遊んでくれた。
浩三が東京で買ってくれたシャッポ=帽子もいい思い出だ。浩三が姉のこうさんに出した手紙で「ノブヨのシャッポは、あさっての日曜日に新宿へ買いに行きます」(1942.6.19)と書かれている帽子。浩三はその帽子を夏休みの帰郷で持ち帰って乃ぶ代さんにかぶせたところ、帽子のサイズが小さくてかぶれず、乃ぶ代さんは大泣きした。浩三は「帽子が小さいというより、ノブヨの頭が大きいんや」と笑って帽子を持って東京に戻り、大きめのサイズに買い替えて郵送してきた。写真はこの時、姉妹で並んで撮ったものだ。 ◇お木曳参加に帰郷、装束そのまま銀座を歩く こうさんの娘たちに寄せる浩三の温かい気持ちは、入営後も変わらなかった。筑波の滑空部隊で訓練していた1944年6月、前月生まれた三女の芙美代さんあてに手紙を書いている。子供が将来の兵士としてとらえられていた戦時、生まれた子が三人続けて女児だったことへの風当たりほ今では想像できないほど強かったのだろう。そうした雰囲気の中で「お前までがっかりして…えん世的になる必要もない」と語りかけ、「お前が育ってゆくうえにも、はなはだしい不自由があるであろうが、人間のたった一つのつとめは、生きることであるから、そのつとめをはたせ」(原文カタカナ)という文面は心が打たれる。 残念なことに芙美代さんは生後10か月で亡くなり、次女の実知代さんも40代で逝去した。乃ぶ代さんは平成になって津市の自宅にこうさんを迎え、浩三にまつわる話を余さず聞いた。高齢になっても浩三の集いに遠くまで出向くこうさんに付き添った。こうさんは晩年も頭が明晰で、浩三がフィリピンに向かう直前に二重橋前で部隊で撮った写真を同じ部隊で生き残った隊員の家族が2014年1月に発見、確認を頼まれた時も「これは浩三や」と、最後に撮った写真を見られたことを喜んだ。 |
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