詩人・竹内浩三を育てた伊勢志摩の山と海…姉・松島こうさんに聞く        
                            
                           

  弟・竹内浩三の思い出を語る竹内こうさん竹内浩三の生誕90年を記念した「うたと朗読のつどい」(竹内浩三を読む会主催)が2011年6月12日、伊勢市の赤門寺正寿院であった。ナレーター・よしだみどりさんの詩の朗読、浩三が「兵隊なるぼくは蘇州を思う」と詩に書いた中国・蘇州生まれの歌手李広宏さんの歌も良かったが、会場に流された浩三の姉・松島こうさん(93)の参加者に向けたメッセージと浩三の詩「宇治橋」の朗読には心を動かされた。浩三の作品を4歳年上の姉として受け止め、これまで誰よりも強く伝えてきたこうさんの思いを改めて感じたからだ。

 こうさんには4年前の2007年5月、朝熊山山上に建てられた詩碑の「骨のうたう」や墓の裏に刻まれた「「三ツ星さん」を通して浩三の思い出をうかがった。

 「骨のうたう」の詩碑=写真右下=の裏面には、「筑波日記」を世に紹介した詩人桑島玄二氏の記した事歴が、こうさんの字で刻まれている。昭和17年(1942)に日大専門部(現芸術学部映画学科)を繰り上げ卒業して召集され、茨城県の筑波山麓の空挺部隊に配属、フィリピンに送られて20年4月に斬り込み隊員として密林の奥に消えたと紹介し、「故国を離れるに臨んでの詩の一節を刻んだ」としている。戦死が「名誉」として見られた時代に「兵隊ノシヌルヤアハレ」と書き、それを後世に残した浩三の感覚と強い意思は驚くほかない。

 幅1m、高さ70cmと小ぶりなこの碑は「ぼくが死んだら豆腐のような白い小さなお墓を建ててほしい」と出征前に話していた浩三の思いを受けてこうさんらが建立、裏面に「昭和五十五年五月」と刻まれているように、浩三の好きだった5月の25日に除幕された。伊勢きっての呉服店を営んでいた姉弟の父善兵衛は金剛證寺への崇敬が篤く、梵鐘を寄贈しており、そうした縁から街中での墓地と別に寺域に竹内家の墓所があったという。しかし、この詩碑を朝熊山上に建てた理由としては、こうした事情や、魂が還る朝熊山への思いに加え、「浩三がとりわけ好きだった朝熊山に」というこうさんの強い意思があった。

 昭和9年に宇治山田中学に入学した浩三は、回覧雑誌を作るとともに、山岳部に入った。「運動はからっきしだめでした」とこうさんが思い起こす浩三だったが、競争でなく比較的自分のペースでできる登山を選んだのだろうか。「一時脚気にかかったこともあり、高い山への合宿などには参加しませんでしたが、朝熊山へは何度も登っていました。中学校の宿題で植物や昆虫の採集にも行っていました」。

 中学2年の作文「故郷」でも「山といえば朝熊山、海といえば二見・・・といったように自然に恵まれない土地ではない」と記しているが、昭和19年7月15日に筑波山麓の兵営でつづった「筑波日記」では「ひるから、銃剣術をしていた。汗であった。/ひぐらしがないていた。朝熊山と父のことを、ひぐらしからおもい出す」と書いている。「梵鐘を寄贈した時などに父と一緒に朝熊山に上がっており、父と朝熊山の思い出が重なっていたのかもしれません」とこうさんは話していた。
 浩三にとって山とともに伊勢志摩の海も、成長の重要な舞台だったのだろう。中学3年の夏に自ら編んだ「まんがのよろづや 臨時増刊」では3日間の「小浜キャンプ」、6日間の「志摩キ(ャ)ンプの記」を漫画入りで書いており、「海女と一しょに飯をたき 一しょに飯を食い 話をした」体験や、「海女は心も大きく力も強いとわかった」といった見方などが生き生き描かれている。

 伊丹万作監督に傾倒して映画への道を進んでいた浩三だが、「筑波日記」の昭和19年6月19日、浩三は「やりたいことの一つ」として「志摩のナキリの小学校で先生をする。花を植え、音楽を聴き、静かに詩をかき、子供と遊ぶ」と書いている。志摩半島の突端の大王埼波切あたりは浩三が最も好きな海岸の風景だったという。日記ではこの文のあと「消極的な生き方」と続けているのだが「何よりも自由人で、子供が大好きだった浩三にとって、本音では一番やりたいことだったような気がします」というのが、こうさんの見方だった。

 こうさんは昭和51年、浩三が戦死したとされるフィリピンのバギオを訪れ、ジャングルと違って日本の山とそう変わらない風景が広がっていることに気づいた。「東京が好きだった浩三ですが、伊勢志摩への思いは強く、フィリピンの山で思い浮かべたのはやはり、伊勢志摩の山の景色ではなかったのかと思っています」。

   ◇「作品埋もれさせない」 姉の思いずっと

 結婚してからも竹内の実家で暮らし子育てをしていたこうさんは、母を11歳、父を19歳で失った浩三をずっと見続けた。宮沢賢治の詩集をくりぬくなどして兵営から届けられた「筑波日記」をはじめ、浩三の作品の多くはこうさんあてに送られ、戦中、戦後と保管してきたものだ。「終戦前の7月に伊勢や津は空襲を受けたのですが、その時には浩三の作品を持って伊勢の実家から松阪に引っ越していたため、燃やさずに残すことができたのはせめてもの幸運でした」とこうさんは振り返っていた。

 「浩三の分まで命をもらって生きてきました。浩三の作品を埋もれさせたくない、一人でも多くの人に知ってもらいたいという気持ちを今も持ち続けています」。朗読の穏やかな声の中にも、背筋を伸ばした姿勢で年月を重ねてきた姉の力強さが感じられた。                       (文・写真   小泉 清)                         

〔参考図書 ]
小林察編 「竹内浩三全作品集 日本が見えない」 藤原書店、2001
雑誌「伊勢人 竹内浩三が見たNIPPON」 伊勢文化舎、2007.8

 生誕90年 今に響く「ながいきをしたい」の叫び

子どもに「生きること」伝えた浩三兄ちゃん…姪・庄司乃ぶ代さんの思い出=2020.2.2.12取材
                                                 
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