★ 生誕90年 今に響く「ながいきをしたい」の叫び |
「生誕90年記念のつどい」へのメッセージの中で松島こうさんは「浩三がどこかに生きている気がしてなりません。生きていればきっと宇治橋を渡っていたでしょう」と述べ、「ながいきをしたい いつかくる宇治橋のわたりぞめを おれたちでやりたい」で始まる「宇治橋」の詩を朗読した。会場に来ていた長女の庄司信代さん(72)に尋ねると「母は10日前に自分自身で詩を選んで吹き込みました」という。
五十鈴川にかかる宇治橋は20年ごとの式年遷宮で架け替えられ、3代の夫婦が渡り初めの先頭に立つ。「ながいとしつき愛しあった/嫁女ともども/息子夫婦もともども/花のような孫夫婦にいたわられ」と続く。最近では2009年11月に渡り初め式が行われており、こうさんには、この詩のように宇治橋を渡る浩三の姿が目に浮かんだのだろう。
この詩は「骨のうたう」や「日本が見えない」のように、死を通して時代を見通すような鋭い視点や、たたみかけるようなリズムは一見感じられない。私も4年前に詩文集で初めて読んだ時は、伊勢神宮での小春日和の日のような情景が思い浮かび、少し違和感を感じていた。しかし、今年になって読みかえしてみると、兵隊になってほどなく戦地に向かう時に、「花火があがった/さあ、おまえ わたろう/一歩一歩 この橋を」という温かな将来の家族の姿を通して、「ぜひとも ながいきをしたい」と結ぶこの詩が、生きることへの痛切な思いとして響いてきた。そして、こうさんの朗読によって、いっそう心に刻まれる詩となった。
◇墓に刻んだ「ほんとに私は生きている」
「うたと朗読のつどい」で参加者全員で朗読した詩は、浩三の墓に刻まれている「三ツ星さん」=写真=だ。「・・・私のすきなカシオペア/私は諸君が大すきだ/いつでも三人きっちりと/ならんですゝむ星さんよ/生きることはたのしいね・・・」というこの詩は、浩三が東京で浪人生活中だった昭和14年(1939)の作という時期の違いもあってか、「骨のうたう」とは随分、印象が違う。なぜ、浩三の墓にこの詩が刻まれたのだろうか。
こうさんにうかがったところでは、この詩は甥の竹内敏之助さんが選んだもの。甥といっても浩三より2歳年上で、幼い時から同じ家できょうだい同様に暮らしたという。「敏之助さんには聞かなかったのですが、今になって思うと、敏之助さんは『三ツ星さん』を私たち3人として見ていたのでしょう。浩三がどう考えて詩にしたのかはわかりませんが・・・」。
この詩の背後にはもう一人の家族が見える。「浩三は父の影響を受けて星に思いを持っていました。父は夏の夕方には外に出て私たちに星のことを説明してくれていました」とこうさん。浩三が映画の道に進むことに父は強く反対、その父がこの詩を作る前の昭和14年3月に亡くなったことで浩三は翌年映画科に入るのだが、「決して商売一本ではなかった」という父が詩人・浩三に与えたものは少なくなかったようだ。
浩三の「戦死」は公報に示されているだけで、それを示す遺骨も遺品もこの墓の下にはない。「浩三が斬り込みで死んだとは思えません。今となっては死んでいるかもしれませんが、戦死ではなくて生き残って、どこかでなくなったのではと思ってしまいます」とこうさんは話していた。
「ほんとに私は生きている」と浩三は「三ツ星さん」の詩の最後を結んでいる。こうさんの話で、一見平明過ぎるように思っていたこの詩が、墓に刻まれている理由がわかったような気がした。
(文・写真 小泉 清)
〔参考図書 ]
小林察編「竹内浩三詩文集」風媒社、2008 「骨のうたう」原形も所収。
★詩人・竹内浩三を育てた伊勢志摩の山と海…松島こうさんに聞く
★子どもに「生きること」伝えた浩三兄ちゃん…姪・庄司乃ぶ代さんの思い出=2020.2.2.12取材