特攻艇「震洋」 荒海で出撃訓練重ねた日々                                
  太平洋戦争末期、船も飛行機も底をついた日本海軍が本土決戦に向けて作ったベニヤ板製の特攻艇「震洋」。その搭乗員として終戦の日まで台湾で出撃訓練を続けていた中塚清さん(89)(和歌山県由良町)=写真=に体験をうかがった。

 中塚さんは大正15年(1926年)11月7日に生れた。小学校から野球も相撲も得意で、耐久中学(現・和歌山県立耐久高校)に進むと飛行機に憧れてグライダー部に所属。最上級の5年生になった昭和18年(1943年)、予科練(甲種飛行予科練習生)を志願した。

 配属先の三重海軍航空隊奈良分遣隊は天理市内の天理教会の建物を隊舎として使っていた。ここには朝鮮・台湾・中国など「外地」から来た隊員もいたが、そのうちの3人が上官の厳しいシゴキに耐えかねて2階から飛び降り自殺した。現場は近づかないようにされ秘密裏に処理されたが、この飛び降り自殺は「ボーイング」と呼ばれていた。

  ◇「V1、V2に勝る超強力兵器」 その場で志願

 教育訓練中に全員が講堂に集められ、海軍省の偉い人から「特攻に出る飛行機がもう底をついたが、ドイツのV1、V2に勝る超強力な新型兵器ができた。ついては、それを操縦してもらいたい」と告げられた。その場で搭乗員の募集が行われ、ほとんどの隊員がこれに志願した。

 志願者たちは、昭和19年9月に大阪から窓をすべて閉じた列車に乗せられて出発。到着した先が長崎県大村湾川棚の海軍水雷学校に新たに作られた分校、川棚海軍臨時魚雷艇訓練所だった。分校到着前に引率教官から「明日、超新兵器を見てがっかりするな」と言い渡された。それで、初めて「震洋」を見た時も「ああこんなものか」と思ったが、がっかりしなかったという。

 ここで薄(すずき)部隊に配属され、震洋の操縦方法を教わり、夜間に1艦隊12隻で出発、縦一列で敵艦に接近後、敵艦直前で左右横一列に並んで全速で突入、体当りする訓練などを約2か月間受けた。10ノットを越える速さの水道を乗り切るのが卒業試験だった。

 ◇夕暮れのバシー海峡、実戦想定し訓練死多発

 訓練を終えた中塚さんらは、震洋艇とともに貨物船に乗り込み船団を組んで台湾へ出航したが、途中五島列島付近で浮遊機雷で船が損傷した。いったん呉基地に戻って修理を受けた後、昭和20年1月、再び船団を組んで出航し、今度は無事台湾に着いて、台湾最南端のバシー海峡に望むガランビ岬の基地に配属された。

 基地には震洋艇を隠すための格納壕が完成しており、壕内には震洋をトロッコに乗せて海面まで下ろすためのレールも敷かれていた。内湾で穏やかだった大村湾と違って、ここはバシー海峡を望む荒海で訓練も厳しかった。実戦では真っ暗闇での攻撃は無理、昼間は敵機に見つかるので、狙うは夕暮れ時しかない。これを想定して夕刻、まだ薄明かりの残る状況で、敵艦を探して体当たり攻撃する訓練を繰り返した。全長5m足らずの船体は高い波の上に上がると動きが定まらず浸水でエンジンが効かなくなることが多かった。6月10日の夜間訓練では、エンジン故障などで転覆沈没する事故が相次ぎ、第二艇隊長ら7名の仲間が行方不明になって戦死した。

  ◇捕虜になったが「以徳報怨」の声明に安堵

 この頃、米軍の攻撃は沖縄に集中していたこともあって、ガランピ基地には終戦まで米軍機による空襲はなかった。食事はよく給料も多かったので、生活の苦労はまったくなかった。日本の敗戦は考えてもいなかったが、8月15日に玉音放送を聞いた時は、「ああ、これで終わった」と感じた。海兵団内で捕虜になってしばらくして全員集合させられ、蒋介石総統代理の長官が「日本のみなさん、中国は日本軍に中国大陸を侵略されて相当な被害を受けましたが、私たちはその怨みに徳をもって報います。皆さんを必ず祖国にお帰しします」という「以徳報怨」の声明を読みあげるのを聞いた時はみんな感激し、「よかった、助かった」と安堵の胸をなでおろしたことが今も印象に残っている。

 捕虜になってまもなく虫垂炎になった中塚さんは、痛む下腹部を手で押さえながら歩いて海軍病院へ行き、軍医の麻酔なしの手術を受け、また歩いて宿舎に戻った。「麻酔なしで痛かったが、手術を受けられて運よく命拾いをしました」。中塚さんは昭和22年3月に米軍の揚陸艦LSTに乗り、3月21日に広島の大竹海兵団に上陸した。郷里の由良に帰り着いたのは3月23日だった。

    ◇名キャッチャーで野球指導、平和守る活動広げる

 復員した中塚さんは、父の家業を受け継いで靴屋になった。子供のころから親しんでいた野球は、戦後思う存分できるようになり、地元の仲間でチームを組み、和歌山市まで試合にでかけた。中塚さんはキャッチャーとして活躍、プレーの一方で子供たちに熱心に指導してきた。
 
 地元の幅広い人とのつながりの中で、中塚さんは自分自身の戦争体験に加え、震洋や回天の基地もあった由良町で多くの町民が戦争の犠牲になったことを知った。「必す死ぬと分かっていながら特攻を志願しなければならない、そんな戦争の時代を二度と繰り返してはいけないし、子供や孫たちに体験させたくない」と平和を守る運動を続けている。
                        (文・写真  小泉 清)=2016.6.18取材
 
  中塚さんは2015年の「戦争体験と平和への思いを語り継ぐ会」で震洋隊員の体験について話す予定で、当サイトでも予告していましたが、家族のご健康の事情でかなわなかったため、池本護事務局長が聞き書きをもとに解説しました。今回の記述はこの時の資料を基礎にして、2016年の「語り継ぐ会」終了後に中塚さんにうかがったものです。
               
   70年前の夏忘れず 本土決戦の拠点・紀伊由良巡る=2015.8.7取材

     
「語り継ぐ会」12回、 海防艦犠牲者の兄の思い=2016.6.18取材
      
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