70年前の夏忘れず 本土決戦の拠点・紀伊由良巡る                                
 大阪湾への関門・紀伊水道に面し、戦争末期には本土決戦に備える軍港の町だった和歌山県由良町。70年目の「終戦の日」を前にした2015年8月7日、特攻基地や弾薬庫の跡など戦争遺跡を、町内の池本護さん(79)に案内してもらった。

   ◇「震洋」格納した深い洞窟 藪かき分けて

 まず、池本さん宅で豊富な写真と文書の史料で「由良町の戦争」を学習。由良町では、太平洋戦争開戦前の昭和12年から紀伊防備隊の造成工事が始まり、14年には開隊。敗退が濃厚となってきた昭和18年からは防衛体制が強化され、火薬貯蔵庫などが設けられた。大戦末期には米軍の紀州の海岸への上陸に備えて白崎で人間魚雷「回天」の基地を建設、神谷の浜では、ベニヤ板製モーターボートの船首に爆薬を積んで特攻する「震洋」と、海底に潜って米艦船を棒付き機雷で迎撃する「伏龍」の訓練が行われていた。

  写真の多くは戦後、国鉄で働きながら撮り続けた岩崎芳幸さんの作品だ。池本さんが事務局長の「九条の会ゆら」ではこうした資料をもとに、2012年には「軍事遺跡ウォーキングマップ」を作成、遺跡の場所と概況が一目でわかる。

 「マップ」を手に、池本さんのワゴン車に乗せてもらい戦争遺跡巡りに出発。防備隊基地跡の裏手の大谷を奥に入っていくと、山腹を掘ったコンクリート製弾薬庫跡=写真上=があった。間口2.5m、高さ3m、奥行き15mはあり、相当量の弾薬が入れてあったのだろう。手前には地元の人が資材を置いている。こうした弾薬庫跡が周辺に10くらい残っているそうだ。周辺の山々の頂上には高角機銃を配備した監視哨が設置されたが、山道が使われなくなって草木が生い茂り、近づけない場所が増えているという。

 由良湾の北側海岸を西へ進むと、神谷の集落。ここの浜で「震洋」や「伏龍」の訓練が行われていたという。造船所が建てられた現在よりずっと浜は広かったようだ。造船所の裏手から紀州独特の鎌を使って藪をかき分けていくと深い洞窟があった。中は岩が崩れているが、奥行き13mほどあり中はひんやりしている。ここが「震洋」が格納された洞窟という=写真右。「ここに回天を格納する計画もあり、大きな穴を掘ったようです。格納庫は7基掘られましたが、戦後ほとんどが崩れたり埋まったりしました」と池本さん。

   ◇終戦前月の海防艦や徴用船爆撃で犠牲者

 白崎に基地が建設され、8月9日に隊員が到着した「回天」を含め、特攻兵器は由良では実戦に使われる前に終戦となった。「震洋」や「伏龍」の訓練兵も由良を去って行った。一方、由良湾に停泊していた海防艦は米機に猛爆を受け7月28日に沈没し、7月10日の爆撃と合わせて計95人が戦死した。海防艦が13人の遺体とともに引き揚げられたのは昭和28年になってから。13回忌の昭和32年、現場の海岸沿いに供養塔と由来碑=写真下=が建てられている。7月10日には軍用物資輸送に徴用された貨物船が、神谷港を出た直後に米機に襲われ、船長ら2人が死亡した。

 このように終戦直前に犠牲となった人々の多さ。制空権を完全に失った中で特攻頼みの「本土決戦」を想定し、遅すぎた「ご聖断」をもたらした体制の愚かさと怖ろしさを改めて考えてしまった。特攻を前にした兵士が、決死の覚悟で臨んでいたことを聞いたり読んだりすると、その思いが一層増す。

 神谷の浜では子供たちが泳ぎ、白崎では若者がダイビングの準備をしていた。紀州の青い海にはマリンスポーツやレジャーの夏がふさわしいが、70年前のこの海岸で起きていたことは記憶しておきたい。
              (文・写真  小泉 清)=2015.8.7取材

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