| ★ 空襲で奪われた姉と父、ソ満国境から兄還らず 大阪府豊中市 |
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6月7日の豊中市南部・豊南地区の空襲を語り継いでいる鵜飼律子さん(94)にとってかけがえのない家族写真がある。昭和7年(1932年)の正月、生後8か月の赤ちゃんだった律子さんを抱く母千代子さん(33)、母の作った晴れ着を来た姉の満子さん(5)、父鎌太郎さん(40)、兄の次郎さんとお手伝いさんが写っている。この13年後の昭和20年夏、何が起こるかは想像もできなかっただろう。◇警察官から百貨店勤務、娘に愛情注いだ父 当時、父は大阪・天満橋にあった三越百貨店に勤務。元は警察官だったが、当時は年金支給年限を務めると退職することが多く、鎌太郎さんも40歳代で三越から声がかかり、警察でのキャリアを買われて警備業務を任された。夜間の巡回もあるので1日おきに泊まり勤務。律子さんが朝の弁当を届けると、大喜びだったという。姉の満子さんと一緒に尋ねると、三越の写真館で写真を撮ってくれた。 律子さんが生まれた時は大阪市の中崎町に住んでいたが、兄の次郎さんが喘息ぎみのため豊能群小曽根村に引っ越した。お気に入りのテーブルとイスも運び、幼い律子さんはよく上から飛び降りて叱られていた。 ◇繰り上げ卒業の兄、すぐ招集され満州へ娘には甘かった鎌太郎さんも次郎さんには厳しかったが、病気がちな次郎さんのため遠方まで薬を求めに行くなど気にかけていた。太平洋戦争が始まった昭和16年、次郎さんは近畿大商学部に進んだが、戦況が厳しさを増す中で、昭和19年9月に繰り上げ卒業した。 10月には赤紙が来て大阪の陸軍歩兵22部隊に入隊。すぐに満州に送られ、当時の満州国北東部でソ満国境に近い間島省で軍務についた。「病弱な兄を招集するほど日本は戦力で追い込まれていたのでしょう」。 ◇焼夷弾で大やけど「お父さんこんなになってしもうた」 そして昭和20年6月7日、神崎川をはさみ軍需工場が立地していた大阪市から豊中市にかけての地域に米軍の大空襲があった。豊中高女(現・府立桜塚高校)に通っていた律子さんが家に急ぎ足で戻ると、1トン爆弾と焼夷弾で自宅周辺は全焼・全壊。母と妹の敏子さんは無事避難できたが、病気で家で寝ていた父は会社の書類を持って別に避難する際に大やけどを負った。 律子さんが戻ってきた時、土手に寝かされていたが、律子さんが気づかないほどの顔や首の状態だった。土手で漏らした「律子か。お父さんこんなになってしもうた」。長く警察官を務め、百貨店でも警棒を手に見回っていた父から律子さんが聞いた最期の言葉だった。 父は母の懇願で救急病院に運んでもらい、刀根山病院に転院されたが、6月9日未明、母にみとられて亡くなった。苦しみながらも「次郎に言うなよ、次郎に言うなよ」と繰り返していたという。 母が父の看護に追われたので、爆撃を受けた軍需工場「三国航空機材」に挺身隊として勤めていた満子さんの安否確認は律子さんの役割だった。会社に駆け付けてもわからず、9日になって消防欄の連絡を受けて40体の遺体を見た。着ていたギンガムから満子さんを確認した。消防団の人に促されて帰宅、夕方、焼け跡から姉を火葬する荼毘の煙を見つめていた。 父も姉も、そして家も持ち物も失った鵜飼さん。大阪市に住む父の親戚を頼ろうかと訪ねたが、余裕がないとわり、すぐ戻った。周囲の人の好意で近所に住まいを見つけることができ、終戦を迎えた。 ◇「ソ連へ移送中倒れる」抑留から帰還の戦友が報告 しかし、戦争の犠牲はこれで終わらなかった。次郎さんの向かった満州は8月9日にソ連軍が侵攻、関東軍は崩壊し、多くの将兵がシベリアに送られ抑留された。ソ満国境でソ連を迎え撃った部隊に所属していた次郎さんの消息はつかめず、国からは「状況から戦死されたとみられるので、認めるように」と言ってきたが、母は「亡くなったかどうかはわからない」と拒絶。ソ連からの引き揚げが始まると、何度も汽車で舞鶴に向かって次郎さんを探し求めた。しかし、手掛りもつかめず、「汽車賃もかかるしもうもたない。舞鶴行はもうやめよう」と話していた。 終戦から4年ほどたった日、兵隊服姿の青年が鵜飼さん方を訪ねてきた。次郎さんより2、3歳上の和田義男さん。同じ部隊に所属、病弱な次郎さんに代って手紙を書いてくれていた戦友だった。空襲を受けた6月以降に受け取った手紙では「次郎君も至極元気にて日夜業務に御精励されています」などと書かれていた。「上がってください」という母の勧めも固辞した和田さんは、次郎さんのことを話した。「ソ連の侵攻はすさまじく、私たちは敗れてとらえられ、ソ連に送られることになりました。その途上、体が弱っていた次郎君は歩行についていけず再度倒れました。私は『しっかりしろ』と励ましながら抱き起こしていたのですが、3回目に倒れた時は『もうこれ以上歩けない。どうかこのまま置いていてほしい』と頼まれ、これ以上連れていけませんでした」、「私と次郎君のいた佐藤隊は、ソ連との戦闘、その後の移送、抑留で隊員のほとんどが倒れ、生きて帰れたのは私ともう一人だけです」。 愛媛県の家に戻って休む間もなく、戦友の報告に向かったという和田さん。「もう一軒訪ねなければなりません」と辞去した。「あんたは出んときと母に言われたんですが、ご住所を聞かないまま別れたのは残念でなりません。友を思う心がただ有難く、頭が下がるばかりです」 戦友の証言で、母も考え直し、息子の死亡を認めることにした。母の頼みで、鵜飼さんは大阪市内のうらぶれた援護局に出向いて手続き。後日、「陸軍兵長 鵜飼次郎 右は昭和弐拾年八月拾四日時刻不詳 満州間島省…完勝山陣地で戦死せられましたのでお知らせ致します」と書かれた知事名の死亡告知書が届いた。和田さんの話が真実で、公告の内容は本当でないと思ったが、役所はこう書くしかないのかと受けとめた。 「兄はおとなしいが優しい性格で、母の文房具店の仕事をよく手伝っていました。帰還していたら文房具店の主になって穏かに暮らしていたかもしれません」と鵜飼さん。母は「一日の違いで次郎は死ななくてもすんだのでは」と話していたという。 ◇母と妹と助けあって戦後を生きる 律子さんと妹の敏子さんと三人の家族の生計を立てるため、文房具店に加え、母は和裁の仕事を続けた。戦後の学制改革の時期に当たり、鵜飼さんは、旧制中学を5年で卒業するか、新制高校2年生として学業を続けるか選択があった。「少しでも早く仕事について母を助けたい」と迷わず卒業を選んだ。知り合いの関係で、輸入した化学肥料を各地に分ける肥料配給公団に就職。1年で公団が廃止になったので、転職先を探してもらい、東京銀行梅田支店の試験を受けて入った。「元が横浜正金銀行で、男の人はみな紳士ではたらきやすかったです」。 母・千代子さんは50歳を過ぎて「外で働こう」と決心、料理学校に通って56歳で豊中市立小の給食調理員に採用され、22年間勤めて106歳まで生きた。「母と妹と3人で助けあって生きてきました。仕事への頑張りは母にかなわないと思いましたが、みんなが苦しむ戦争を伝えていきたい」と鵜飼さん。妹の介護をしながら体験を語り続けている。 ◆ 「生きていて一番悲しかったこと」と鵜飼さんが振り返る姉・満子さんとの別れの思い出は、昨年6月の三国金属の慰霊祭のおりにうかがった=下記記事。年末、ソ連侵攻で倒れた兄・次郎さんの話を聞き、残された写真を見せていただいて、戦争のもたらす苦しみに限りがないことを改めて感じた。=2025年12月17日取材、2026年3月2日掲載 (文・小泉 清、写真は鵜飼律子さん提供) ★軍需工場空襲、従業員、動員学徒の慰霊祭続ける =2025年6月6日 ⇒トップページへ |
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