軍需工場空襲 従業員、動員学徒の慰霊祭続ける  大阪府豊中市       
 
  6月7日は私の住む大阪府豊中市が太平洋戦争末期に初めて空襲を受け、市内各地で541人が亡くなった日。前日の6日、出身高校の前身・豊中中学の20回生8人と引率教師1人が勤労動員中爆死した会社の慰霊祭に参列した。

◇豊中市南部の三国金属工業、後輩も参列

 会社は、豊中市南部の神崎川近く(豊南町西4)の三国金属工業。当時は三国航空機材の名で、「紫電改」の部品を製造していた。大阪市に隣接し、軍需工場が集積していた地域で、B29が1トン爆弾や焼夷弾を大量に投下し、工場は全焼した。記録板には、勤労学徒として働いていた豊中中の生徒と金蘭会高女の生徒5人を含む41人が犠牲となったと書かれている。

 同社は戦後スチール缶製造に業種転換。1957年に創業者の辻喜一氏が学徒を含む戦災者慰霊碑=写真=を建立し、途切れることなく慰霊祭を続けてきた。遺影碑は4年前に見学・参拝したことがあるが、慰霊祭は初めて。数年前から出ている8期先輩の越智克司さんに声をかけてもらい、17期上の大先輩、同窓会役員らOB5人とご一緒した。

  供花された慰霊碑の前で合掌。代々の住職が慰霊祭でおつとめをしてきた地元の明福寺(浄土真宗本願寺派)の小畑淳住職の読経で順次焼香し、終戦を目前に倒れた人々を偲んだ。明福寺は代々の住職がこの慰霊祭でおつとめを行なっており、小畑住職はこれを受け継いで、三奉請、阿弥陀経を唱えた。

 終わりのあいさつで、5年前に就任した板垣毅社長は「戦後80年を区切りとせず、これからも続けていきますので来年もご参加ください」と語った。

◇高女卒業間もなく…姉の火消えるまで見守る

  同社の事務所で勤務中に爆死した鵜飼満子さんの妹・鵜飼律子さん(94)が参列され=写真左、式の前後にお話を聞いた。満子さんは豊中市立高女を卒業後すぐ、女子挺身隊として自宅近くの三国航空機材の事務員として働いていた。防空壕に入る直前、爆弾で飛び散った土砂で埋まった。
 当時府立豊中高女(現・桜塚高)2年だった律子さんが会社に駆けつけ探し回ったが、夜になっても見つからなかった。翌々日の9日朝になって消防団から連絡があり、並べられた40体以上の遺体から満子さんを見つけた。姉がミシンで縫うのを見ていた青と白のギンガムの服が決め手となった。

  昼過ぎに荼毘にふされ、トタン板に載せられた3人の遺体が運ばれてきて火葬された。「真ん中が姉、右側が豊中の生徒さん、左側が社員の人でした。後になって豊中生は早稲田へ進んだ北之坊修治さんと知りました」。お骨は明日にと言われて家の焼け跡に戻った律子さん。焼夷弾で大やけどを負った父は刀根山病院で9日朝に息をひきとり、母もその事態に追われ、一人きりだった。
  「周りは焼け野原で、工場から荼毘の煙が三本立ち上るのが見えました。黒い煙が赤くなっていきます。真中が姉の火。『私が見ているからね。お姉ちゃんありがとう』と、庭石に腰かけ、白い煙に変わり消えるまでずっと見つめていました」と「生涯で一番悲しかった」記憶を話された。
                   ◇
 取り巻く環境は変わっても、戦禍のあった同じ場所でこうしたつどいが、儀礼にのっとってずっと続けられていることは有り難い。参列者の人々との出逢いも通して、戦禍の実態を知識としてだけでなく、この場にいた人々の思いとして少しでも感じ取れた気がした。
    =2025年6月6日取材 (文・写真 小泉 清)

友に 後輩に 地域に 憶念の思いずっと =2025年6月4、6日取材
     
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