友に 後輩に 地域に 憶念の思いずっと 、大阪府豊中市       
 
  三国航空機材に勤労動員中に空襲で亡くなった豊中中20回生8人と引率の宮川馨先生を慰霊する「憶念の碑」を、慰霊祭の前々日の6月4日、豊中市岡ノ上町の二大字共有墓地に訪ねた。国道176号線沿いの街中だが静かな墓地の奥、エノキの大木の脇に大きな自然石の慰霊碑がある。毎年この時期に清掃と参拝を続けている8期上の先輩・越智克司さん=写真下=が作業を始められていた。

◇戦後25年経て同期の願い込め慰霊碑建立

 戦後25年を過ぎ、動員された中学20回生を中心に亡き友を慰霊し記憶に留めようという機運が高まった。同窓会=豊陵会主催で1973年に看景寺(浄土真宗大谷派)で法要が行われ、同期の豊島今雄住職の尽力で、1974年6月に碑が建立された。豊島師の揮毫で「憶念」の二文字が刻まれ、裏面には碑文と9人の氏名が記されている。

 かつては6月7日前後に遺族が参拝していたので豊陵会有志がその前に清掃。卒業生ではないが、近所の米穀店主が協力してきた。関係者の高齢化で、ここ数年はまとまった形での清掃や参拝は行なわれていない。
 私は庭の花を供え、石磨きを手伝った程度だったが、一人でよりも同窓の先輩とともに参拝すると、80年前の戦火に倒れた同窓の方々に一歩近づけるように思えた。

 碑には清掃前から花が供えられていた。「遺族でなくても、お墓参りに来る時にこの碑にも心をかけておられる人がいるのでしょう」と越智さんは話された

 この墓地には日清、日露戦争からの戦没者の墓碑が多く建てられている。憶念の碑のすぐ近くにも、「昭和二十年八月六日 廣島市に於て原子爆弾にて戦死 享年二十二歳」「昭和二十年八月二十日 中華民国湖南省…兵站病院にて戦病死す 二十一歳」と刻まれた墓があり黙礼した。8月15日の目前に、時にはその後に、この地区からだけでも多くの若者が命を失ったのだろう。

 豊中中学・高校創立90周年に当たる2011年、憶念の法要が看景寺で行なわれ、「憶念の碑」を豊中高校内に移転する計画が持ち上がった。ところが、堅牢に見える石の劣化が進んでいてクレーンでの移動に耐えられないということがわかり、断念となったそうだ。「地域で大事にされてきたので、ここで歴史を語り続けることになって良かったかもしれません」。越智さんの言葉に私も同じ思いだった。

 ◇校内中庭に記念プレート 16人の犠牲伝える

  「憶念の碑」が墓地に残った一方、豊中高内の中庭に2012年、「憶念の記念プレート」=写真左=が設置された。私は2021年になって存在を知り案内してもらったが、6月6日の三国金属工業の慰霊祭の帰途、豊陵事務局長の伊藤晴康さんらにお連れいただき4年ぶりに再会した。

 金属板で、「憶念の碑」の持つ自然石の重みはないが、浅井由彦先生の監修で、大阪府内の公立中学では最も多かった空爆の犠牲の事実が正確に記載されている。6月7日の三国航空機材での犠牲者9人に加え、6月7、15、8月14日に他の勤労動員先や自宅、京橋駅で亡くなった7人の氏名、期数、状況を記載している。京都帝大に進学後陸軍に応召され戦後C級戦犯として処刑された木村久夫氏の記述もあり、戦争が豊中中学生にもたらした実相が示されている。
 時は経ても、在校生はもちろん卒業生にとっても、戦争と平和を考えていく手がかりになり続けるだろう。
    =2025年6月4、6日取材 (文・写真 小泉 清)
           
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*「憶念の碑」「憶念の記念プレート」についてのお問い合わせ先 
 豊陵会事務局 電話06-6849-4973  月水金の10:00~15:00開局

軍需工場空襲、社員と動員学徒の慰霊祭続け=2025年6月6日取材
     
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