「承久の乱」の発端 椋橋総社周辺 大阪府豊中市 | ||||||||||
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大阪市の郊外住宅都市としてのイメージが強く、隣接の池田、伊丹市と比べても歴史の話題が乏しいとみられてきた豊中市。それでも日本史を転換する事件の舞台となった。市西南部で旧猪名川をはさんで尼崎市に隣接する庄本町(しょうもとちょう)は、中世には水運の要衝として繁栄、周辺の荘園支配をめぐり後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権・北条義時が対立し、武家が政治の中心となる承久の変の引き金となった地だ。 水上交通の要衝の権益めぐり譲らず豊中市でも北寄りに住む私には随分遠いように思えていたが、雨水幹線を親水水路とした新豊島川沿いを自転車で走ると快適だ。名神高速の下を抜けると、水路は寸賀尻堰門を介して旧猪名川に注ぎ込む。旧猪名川堤防の道には神崎川への合流地点までソメイヨシノが植樹され、今年は3月28日に満開を迎えた=写真。堤防上の道を椋橋から東に折れ、「京街道」と呼ばれてきた昔からの道を行く。大きな白鳥居をくぐって200mほど北へ進むと、椋橋総社の境内。クスノキの大樹4本が空に向かって伸びて圧倒される。 境内には「承久の乱 800年」ののぼりが各所に掲げられている。2021年5月15日がちょうど乱が勃発して800年に当たるため、記念イベントを開催する予定でそろえたもの。残念ながらコロナ緊急事態宣言でイベントは中止なったが、のぼりは生かし、入口右手の鯉池前に「承久の乱ゆかりの地 椋橋荘」と書いた新しい説明板=写真=を設置した。 これに沿っておさらいすると、椋橋荘は猪名川をはさみ豊中市西南部から尼崎市東部にかけて広がっていた広大な荘園で、ここ庄本がその中心地。能勢~池田から木材が運ばれ、瀬戸内海~神崎川~淀川のルートで京へ運ぶ物資を積み替える河尻の港として繫栄したという。 淀川に沿った水無瀬に離宮を築いた後鳥羽上皇は、神崎川沿いの江口の白拍子・亀菊を寵愛。亀菊にこの椋橋荘を与えたが、鎌倉幕府が任命した地頭が権益を脅かしたとして上皇側が執権義時に罷免を要求した。義時が拒否したことから対立が決定的になり、これを機に「承久の乱」が起こったとされている。 実際、2002年には椋橋総社すぐ近くから鎌倉時代の柱や井戸、船が出入りする水路跡、宋でつくられた陶磁器=写真=が見つかり、庄本が大規模な水上交通の拠点がであると裏付けられた。対立の経緯も、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」に書かれており、程度の大小はともかく、椋橋荘が乱のきっかけとなったことは間違いないだろう。 ◇亀菊の才覚、天神信仰に結びつけ? クスノキを見上げながら境内を奥に進み、本殿で拝礼した後、左手に向かうと「出世亀菊天満宮」=写真=の小さな社殿がある。亀菊が天神を信仰していたため、後に天満宮を勧請。宮司の川辺豊さん(84)に尋ねると「『ご神体を亀菊天満宮として祀る』と江戸中期の文政年間に箱書きされていました」とのことだった。庶民の間でも天神信仰が広がった江戸中期に、亀菊伝承を結びつける形で勧請したようだ。 亀菊は後鳥羽院の側室となって伊賀局(いがのつぼね)と呼ばれ、承久の変に敗れて隠岐に流された後鳥羽上皇についていき、上皇の崩御後島から戻って落飾したという。吉備の国の要衝の地の荘園を任されたこともあり「荘園の運営、管理能力が評価されたのでは」、「白拍子ならではの人的ネットワークを持っていたのではないか」という見方もある。「出世亀菊」という名を付けたあたり、寵姫という受動的な役割に留まらない自律的な生き方が評価されていたのだろうか。 ただ、「出世亀菊天神」に絞って合格や昇進を祈願しに来る参拝者は、あまり目につかない。史実や伝承が掘り起こされたり、説得力のあるフィクションで亀菊への視点が広がれば、キャリアアップをめざす女性が訪れる場になるかもしれない。 ◇鯉伝説、水環境守ろうという狙いも 庄本で長く受け継がれているのは鯉伝説、椋橋総社も「鯉の宮」の名で通っている「祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)を乗せて高天原から神崎の水門に降りてきたが、力尽きて死んだ」鯉を供養する鯉塚の横には、2020年に真っ赤な鯉のモニュメント=写真=が建てられた。鯉ぐるいのカープファンが立ち寄るため、以前は赤ヘルをかぶっていたが、この日は無帽だった。 鯉伝説には「土木事業で全国を回っていた行基が猪名川に橋をかけようとしたが、流れが早くて難航、椋橋総社で祈願したところ、無数の鯉が集まって魚橋をつくり、架橋できた」という話も。行基は実際、神崎川や猪名川で河川工事を行なっているので、こちらは史実を反映していてわかりやすい。 「鯉伝説に基いて、氏子は鯉を食べないという習わしがずっと守られてきました。今でも旅先などで鯉の洗いが出ても、年配の人は手をつけません」。 川辺さんによると、鯉伝説は、水田が広がっていたかつての庄本の風土と生活が背景にある。「この場所は鯉ケ坪という地名の通り、田んぼの中に水路が張り巡らされ、その中に多くの鯉が棲んでいました。ただ水路は泥上げしたり草刈りをしてきれいにしておかないとすぐ埋まってしまい、鯉も生きていけません。だから、『鯉は神様のつかいだから大切にするように』」という伝説をうまく使って、水路の環境をきれいに保つようにさせようとしたのでは、と考えています」。 川辺さんは、椋橋総社の一角にある庄本幼稚園の園長先生でもある。毎年、こどもの日を前にした4月下旬、70人の園児が色とりどりのポリ袋に目やうろこを描いたコイノボリを手作りする。黄色い小さい花が開いたクスノキの大木の枝の間に張られたロープに100匹が翻る。「園児には、鯉伝説を話して生き物や自然を大切にする心を育めれば」と願っている。 川辺さんの記憶には、1950年代に付け替え工事が行なわれた以前の猪名川の情景がよみがえる。今よりずっと川幅が広くて中洲があり、子どもの時はそこで対岸の尼崎市戸ノ内の子どもを相手に石の投げ合いやチャンバラをした。シジミもよく獲りに行った。4月3日には家族で弁当をつくって堤防に集まって菜の花や桜の花見を楽しんだ。川辺さんにとって川は遊びといこいの場だった。一方、改修前の猪名川は度々水害をもたらし、大雨が降ると学校から帰宅させられることも多かった。 ◇市境越え見渡せば、歴史豊かに 天下布武をめざす織田信長に対する荒木村重の反乱で近辺は戦場となり、椋橋総社は全焼し、文書も灰になった。江戸時代になり、椋橋総社は再建。川辺宮司は、その物証として本殿右手に置かれた阪神大震災で倒壊した旧石鳥居の柱=写真=を示した。残った東側柱に刻まれた「元禄十年」(1697年)の字。「この時期に神社が再整備され、クスノキもこの時期に記念樹として植えたと思われます」。となると、樹齢は300年を越える。 境内を出て椋橋に戻った。橋のたもとに「金毘羅大権現 常夜燈」「弘化4年」(1847)と刻まれた石灯篭と庄本連合自治会の説明板がある=写真。江戸時代になると全国的な水運の拠点は、淀川河口に移っていたが、付近は「三田屋の浜」として船問屋があり、池田や伊丹の酒や周辺農村の米が運ばれ、ここで積み替えられて大坂に向かった。対岸の戸ノ内と渡し舟が行き来する渡し場となっており、交通の要所としての地位は保っていた。 時代は変わって、「いま庄本の問題になっているのは、若者を中心とした人口の減少で、空き家も目立ってきています。一番の問題は交通が不便なことです」と川辺さん。バスはあっても鉄道最寄駅から歩いて30分ほどかかる距離は、新しい住宅の立地や住まい選びの障害になっているという。 椋橋を10秒足らずで渡ると、そこは兵庫県尼崎市。すぐ近くに椋橋荘の中心寺院の真言宗・治田寺(じでんじ)もある。また、旧猪名川をほんの少し下ると神崎川合流点に達し、対岸は大阪市だ。 川辺さんは語る。「ここは川をはさんで豊中と尼崎の接点。豊中だけでなく尼崎を含めていろんな産業や文化を考えていかなければならないと思っています。子どもだった時、こちらの子どもも向こう岸の尼崎の子どもも川の中で一緒に遊んでいたんですから。一緒に考えると、歴史も文化も面白くなってきます」。 (文・写真 小泉 清) ★白拍子・亀菊ゆかりの社で奉納舞踊 23.05.28取材 ⇒トップページへ |