家康の足あとたどる旧東海道・本宿 愛知県岡崎市 | ||||||||||
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江戸時代、東海道を下って西三河の入口になるのが本宿(もとじゅく)だった。今は愛知県岡崎市の東端だが、ここにも今に連なる徳川家康の足あとをたどることができる。 学びの出発点の寺、今に生きる代官屋敷名鉄本宿駅で下り、この地で生まれ育った建築会社社長の畔柳(くろやなぎ)廣さん(74)に迎えていただいた。駅すぐ南の真っ白な旧本宿村役場は、この4月復元されたばかり。1928年(昭和3年)に建てられ、岡崎市と合併した1955年まで庁舎として使われていた。2007年に下水道施設建設のため解体されたが、地元の強い再生の願いが実った。◇門前、坂道の一服場所でにぎわう 内部は本宿の歴史資料館となっており、街道筋の街並みの絵地図などが展示されている。郷土史家の新海眞二さん(83)に基礎知識を説明していただいた=写真左。本宿は赤坂宿(愛知県豊川市)と藤川宿(岡崎市)の間で、宿場ではなかったが、もともと法蔵寺の門前町。「赤坂宿から坂を上ってきたところにあったので特に駕籠かきは大変。茶店が何軒も並び、名物の法蔵寺団子を食べて一服する旅人が多かったのです」。 名産の麻を使った捕り縄をお土産として売る店もあり、「東海道中膝栗毛」に書かれているほど人気グッズだったという。 本宿は、譜代大名が藩主となった岡崎藩の領地ではないそうだ。秀吉に敗れて自害した柴田勝家の甥で養子の勝政の子・勝重が家康から旗本として取り立てられ、その孫の勝門が三河で三千石の知行所が与えられた。旗本なので江戸は離れられず、地元有力家の冨田家が代々、代官を務めた。戦国の世での敗者を、小大名や旗本として復活させる家康ならではの手法が、ここでも見られるのは興味深い。 ◇竹千代8歳の手習い残る法蔵寺 新海さんから学んだうえで、畔柳さんに法蔵寺に連れて行ってもらった。室町時代から三河きっての学問所となり、家康が住職から手習いを受けたとされる浄土宗の寺。三方ヶ原の戦いの戦没者の墓があり、東照宮も建てられた。畔柳さんにとっては子供のころ境内で遊んだり、夏休みに堂内で勉強した身近な寺で、お庫裡さん(住職夫人)の河合孝子さん(71)に家康ゆかりの品々を見せていただいた。 中でも8歳の時に手習いで書いたとされる竹千代の書=写真下=、当時使った文机が興味深い。文机の落書きは三層の城の上に竹千代と書かれたとみられている。河合さんは「筆を見ると、自分が松平を引っ張っていくという強い気持ちが感じられます」。 毎年、成人の日の前後には、地元の本宿小学校では4年生が「二分の一成人式」の行事として、法蔵寺を訪れ、住職さんの指導で自分の好きな一字を書き上げる。 「もともと歴史が好きだったので、『家康公ご由緒の寺』に入るという気負いやためらいはありませんでした。寺に伝わる十六将図では、家臣の輪の中にいる家康さんが描かれていて、上から一方的に命令を下すのでなく、みんなとチームを組んでいる感じがします。私だけでなく岡崎の者にとっては、家康公というかしこまった方というより、家康さんという親しい人なんです」と河合さん。「花まつりなどで子どもが気軽にやって来るお寺に」と気さくに話していた。 ◇修復、地域盛り上げる場とリストランテに 法蔵寺を辞し、先述の代官屋敷に向かった。明治維新後、冨田家は代官でなくなり、医者を開業。庭の楠にちなんで「木南舎」と名付けた代官屋敷を受け継いだ。ただ、近年は空き家となって老朽化が進んできたため、十四代目当主の冨田裕さんが改修を決意し、2019年春に完了。武家住宅としての特徴を持つ建物として、隣接の土蔵とともに国の登録有形文化財に指定された。内部の活用は自由なため、冨田さんは「地域の振興につながる場に」と、岡崎出身の鈴木勇吾さん(45)に呼びかけてリストランテを開くことにした。 この修復工事に当たったのが畔柳さん。岡崎は家康ゆかりの寺社の造営が多く、すぐれた宮大工を輩出したが、畔柳さんの祖父は宮大工、父も大工で冨田家先代当主とつながりが深かった。国の制度も絡むため行政、設計事務所とも入念に打ち合わせ。2018年春から1年がかりで施行した。 ◇宮大工の技法生かし 柱しっかりと 木南舎は五代目当主・冨田群蔵が1827(文政10年)に建て太い部材を使っているが、エントランスと調理場を支える主柱=写真左、客席部分を支える大黒柱の下部が腐食していることがわかった。下部を新たなヒノキ材に取り替え、宮大工の技法を生かして元材を残す上部に継いだ=写真。長い年月でできた細かい穴も、すきまなく埋めた。見た目にも違和感のないしっかりした一本の柱になっている。一部の梁は、三河産の地材の松も使って取り替えた。 客席部分=写真右=は、レストランとして利用するには強度の補強が必要なため新しい柱を入れた。椅子席とするので畳を取り払い、庭を見るのにガラス戸を入れたが、間取りは従来通り。床の間や書額はそのままで、代官屋敷の雰囲気を味わいながらイタリアンを楽しむことができる。 バブル期も手を広げず木造の注文建築に絞って仕事をし、法蔵寺の脇寺の慈光院本堂、長善寺など寺社の建て替えや補修の経験も豊かな畔柳さん。「柱や梁の基本的な部分をしっかり押さえたので、後は自由度を高めて進めることができました」と説明してもらった。 ◇冨田勲さんの曲流れる蔵の郷土史資料室 「大阪、京都の店でスタートしイタリアで4年間修業、岡崎への思いは強く持ってきました」と鈴木勇吾オーナーシェフ。リストランテの名はYughino Yugoで,「ユギーノはイタリア時代の仲間からの呼び名。ユーゴは勇吾と合わせて、地元の人々や歴史との融合を表現したいと付けました」。 土蔵も畔柳さんの施行で、内部を郷土史資料展示室とデザート工房に改装。冨田家に伝わる江戸時代の古文書や火消し道具などを見学できる。現当主の伯父で、幼少年時代を代官屋敷で過ごしたシンセサイザー作曲家・冨田勲さんの音楽と映像も味わえ、東海道沿いのまちを通る時の流れを感じられる。 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ |