★被爆死75年 京でたどるオマールさんの足跡![]() |
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南方特別留学生として広島で学んでいた1945年8月6日に被爆、終戦後帰国の途中京都で亡くなったマラヤ(現・マレーシア)のサイド・オマールさん。彼の京都での足跡をたどる「オマールさんを訪ねる旅 in 京都」が、戦後75年の2020年10月20日に開かれた。 午前10時、京阪三条駅前に集合。主催者の「圓光寺オマールさんの会」の皆さんが受付に立っている。「去年から圓光寺さんの協力で始めた『オマールさん展』がコロナでできなくなったので、野外での活動に切り替えました」とのことで、マレーシアの国旗を取り付けた誘導旗も用意するなど準備も万端だ。参加者はNHK広島放送局のスタッフを含め35人。東京で広島を学ぶ連続講座を続けている二人もいた。 ![]() そこから地下鉄で蹴上に向かい、南禅寺南側の丘にある市営大日墓地に上がる=写真左。オマールさんが9月3日に京大病院で死去、自ら血液を提供して献身的に治療した同病院の濱島義博医師らが参列し、その日のうちに埋葬されたのがこの墓地だ。闘病を支えた京都大での留学生4人がオマールさんの遺体が入った棺を担ぎ、日没直前の石段と上り坂を登ったという。イスラムの教義では、遺体は死後24時間のうちに土葬しなければならず、時間との戦いだったのだろう。 ここで驚くのは、この大日墓地への埋葬に尽力したのが、日本基督教団北白川教会の奥田成孝牧師だったという事実だ。1986年になってその経緯を奥田牧師に尋ねた信徒の橘俟子さんが、大日墓地で話した。オマールさんが京都で下車後に寄宿した国際学友会の館長夫人が奥田さんの妻と遠縁のことから、留学生とともに教会を訪れ埋葬への協力を要請。「仏教のお寺への埋葬は考えられない。キリスト教なら」ということで、同志社の若王子墓地に当たったが、「土地がなく土葬はできない」とのことで、管理人に大日墓地を示された。大学で同期の京大学生課長を通して左京区長に埋葬許可を得ようとしたが、区長が病気欠勤でうまくいかないまま大日墓地に向かった。ここでも管理人が不在だったが、留学生が空き地に穴を掘り始めたので、留守番のおばさんをなだめながら区役所に埋葬許可を出してくれるように奔走。5時前になんとか許可が出たので、神戸から呼んでいたイスラム僧が立ち会い、6時半に埋葬を終えたという。 この後、北白川教会を訪ね、奥田さんの人となりについての話を聞いた。1961年に圓光寺にオマールさんのお墓が建てられてオマールさんについてある程度知られるようになってからも、大日墓地への埋葬の経緯についてはほとんど語られず、時には大日墓地に粗略に埋めたような報道もあった。 これに対し、奥田さんは「埋葬が終わった後、留学生とイスラム僧が整列して私に深々と頭を下げて感謝の気持ちを示してくれた。それだけで十分だ。『すばらしい一日を終えることができました』と祈りました」と語っていたそうだ。奥田さんは陰で人の世話に手を尽くしても、それを自ら語ることがなかったという。 イスラム様式の墓受け入れ 家康開基の圓光寺 ![]() 大日墓地への埋葬から戦後の時が過ぎ、「オマールさんにふさわしいイスラム様式の墓を」という声が市民の有志から上がった。遺族への連絡やイスラム様式のデザインの検討など多くの難題をクリアして1961年、圓光寺に建てられた。 大坪住職にうかがうと、圓光寺は明治から近年まで尼僧の道場となっていて、墓を建てた当時は東海祖教尼が寺を司っていた。いろいろな人の縁でオマールさんの墓を受け入れたらしい。徳川家康が学問寺として設けた特別の寺で僧俗を問わず入学を認めた特別の寺。檀家を持たないので、イスラム信徒の墓を境内に置き、供養するという決断もしやすかったのかもしれない。 “イケメン”で人気があるとともに、自ら被爆しながら焼け出された子供の世話をしていたというオマールさん。そのオマールさんのやさしさが留学生仲間に伝わり、彼らの熱意が奥田牧師をはじめ多くの人を動かして、イスラムの作法にのっとった形で大日墓地に埋葬された。そして、今は圓光寺のイスラム様式の墓に眠り、供養が続けられている。 世界の各地で、宗教をめぐる対立はおさまるどころか厳しさを増している。その中で、自分の中に確固とした信仰を持つ宗教者だからこそ、相手の信仰を尊重できるということを、「オマールさんを訪ねる旅 in 京都」で学べたように感じた。 (文・写真 小泉 清)=2020.10.20取材 本文 圓光寺で偲ぶ被爆死南方留学生 =2020.9.3取材 |