米機迎撃の最前線、由良湾取り巻く山に監視哨跡                                 
 海軍土浦航空隊から高野山航空隊を経て和歌山県由良町の紀伊防備隊に配属された元予科練生がいた。由良湾をとりまく小山に設けられた監視哨で、艦船に攻撃をかけてくる米艦載機に応戦したという体験をうかがい、実地にその監視哨跡を見たいと思い立った。
 2015年に火薬庫や特攻艇「震洋」を格納した洞窟を案内していただいた池本護さん(83)に今回も依頼。市街地から比較的近い紺原山(こんげんやま)監視哨に連れて行ってもらった。

  ◇弾薬庫からの運搬路、途中に退避用岩窟も
 

  由良町里の蓮専寺裏手の津波避難広場からさらにパイプの手すりつき避難路を上がる。15分ほどで標高79mの関電第一鉄塔に着く。そこから北へ伸びる架線の方向に沿って山道を進む。地道のところどころにコンクリートの構造物が埋設されている。人が入れるまでの大きさではないが、隙間が設けられている=写真左。「この道は麓の弾薬庫から山頂の砲台に弾薬を運ぶ運搬路で、構造物はその一部の保管場所でないか」と池本さんはみている。

 20分ほどで現在の関電作業路と合し、そこから南へ転じて紺原山山頂に向かう。すると左手の斜面に穴が開いていて中をのぞくと洞窟になっている。入ると幅2m、高さ1.7m、奥行6mと以外に広い=写真右。コンクリートなどで補強した跡はないが、しっかりした岩窟となっていて「兵士が敵機の機銃掃射を避ける場所として使われたのだろう」とみられる。


  ◇山頂にコンクリート壁の一部残る砲台跡

  第二鉄塔の立つ標高119mの頂上南側には砲台跡=写真下=がある。コンクリートの壁は東側に一部残っているだけだが、もとは6m四方に築かれていたとみられる。米軍機は北東方向の水越峠から紺原山東側の谷沿いの上空を通って由良港の施設や艦船を攻撃。防備隊は、元予科練生が証言していた通りこの砲台に据え付けた96式25ミリ高角機銃で応戦したのだろう。

 頂上からは先ほどの弾薬の運搬路を見下ろす形で尾根道を南へ向かい、第一鉄塔に戻る。20mほどの間隔で壕の跡が見られ、内側にコンクリート構造物が設けられているものもある。斜面を利用した兵士2、3人が入れるスペースがある構造物=写真右=も残っている。こうした壕跡は350mの距離間に確認しただけでも8か所はある。「一部は退避壕としてだけでなく、機銃の台座を備え付けて砲台の機能を持つ壕もあったのではないか。米機の進入路を想定して濃密な布陣を設けていたようだ」と池本さんはみている。由良町内にはあと2か所の監視哨が設けられているが、1943年5月に整備されたこの紺原山監視哨戒が位置的にも最も主要だったとみられる。

 ただ、由良町での戦闘で最悪の95人の犠牲者を出した1945年7月10日、28日の海防艦撃沈の時は米艦載機は進行方向前方の重山(262m)への衝突を避けるため高い位置から侵入し、急降下爆撃した。

 終戦を目前にして多くの兵士が血と汗を流したこの監視哨跡も、戦後74年を経て崩壊が進んでいる。東側を走る紀勢線の列車の音が聞こえるくらい近い山だが、ふだん上がる人はほとんどいない。それでも、海辺の震洋格納庫や弾薬庫跡などと合せ、本土決戦に向けた最前線の拠点を伝える戦争遺構として貴重なものと印象づけられた。
  
            
 (文・写真  小泉 清)=2019.6.11取材
 


   土浦の予科練、高野山航空隊から由良へ=2019.2.25取材  

    70年前の夏忘れず 本土決戦の拠点・紀伊由良巡る=2015.8.7取材

     特攻艇「震洋」 荒海で出撃訓練重ねた日々 =2016.6.18取材

     
「語り継ぐ会」12回、 海防艦犠牲者の兄の思い=2016.6.18取材
      
 [参考文献]  「由良町誌 上」同編纂委 1995
           九条の会ゆら「由良町内戦争軍事遺跡ウォーキングマップ」2009 同会で頒

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