土浦の予科練、高野山航空隊から本土決戦の由良へ                                 
 紀伊水道に面した和歌山県由良町は大戦末期、本土決戦の拠点として人間魚雷「回天」の基地が築かれ、同じく海軍の特攻兵器「震洋」、「伏龍」の訓練が行われた。予科練=海軍飛行予科練習生=で大空を目指しながら、飛行機が尽きたため海の特攻を志願した若者らが出撃を待った。予科練の本拠・海軍土浦航空隊(茨城県)に入った須藤勇次さん(90)は、入隊期の関係で特攻要員にはならなかったが、昭和20年3月に紀伊由良に配備。機関砲での米軍機迎撃や震洋格納庫の建設に当たり、たまたま乗っていた海防艦の撃沈で九死に一生を得た。

  ◇海軍精神直入棒、3回たたかれると気絶も 

  須藤さんは昭和19年、茨城県阿見町にあった海軍土浦航空隊の予科練に入隊。中学時代には近くの滑空場でグライダー操縦の訓練を受けていた。戦局が厳しい状況であることを知り、「飛行機に乗ってお国に尽くしたい」という気持ちになっていたので、誰の働きかけでもなく自ら志願した。当時15歳で、25歳までいた予科練生の中で一番若かった。 「今思えば、『鬼畜米英』『撃ちてし止まん』といったスローガンにあおられていたのでしょう」。

 全国の予科練の中でも中心的存在だった土浦航空隊での教育は厳しかった。まず、綱で体を結ばれて水の中に入れられ、泳ぎを覚えさせられた。溺れそうになると、綱で引っ張り上げられる。泳いだことがない者も、しばらくすると泳ぎを覚えていた。「予科練では相撲があって、負けた方が勝つまで土俵に残る『負け残り』。私は体が小さいから勝てなくて負け残り組だった。大学出の分隊士には勝ったが、今から思えば負けてくれたんだね」。

 一方、誰かがへたをうつと、班全員が連帯責任として海軍精神直入棒でひっぱたかれた。「『一同甲板に集合』って言うから、何かと思って腕を広げて一列横隊になると、尻をたたかれる。みんなお尻が黒くなっていた。気の弱いやつは回もたたかれると気絶し、ロープのついたオスタップ(木桶)に水を入れて持ってきて、ぶっかける。こんなことが一週間に一度はあった」。海軍精神直入棒は太い方が楽で、細い方が痛い。海軍精神直入棒号、号なんてあったという。

 予科練生の進路としては操縦、偵察(偵察機でなく航路の計測など)、整備と分かれていて、須藤さんは整備に進むことに決められた。

  ◇飛行機が尽きて、山内で陸戦主体の訓練
 

 阿見の予科練から、昭和19年10月に高野山海軍航空隊に異動させられた。空海が真言密教の聖地として開いた高野山上に海軍航空隊があったという事実は今ではあまり知られていないが、全国の航空隊で予科練生を教育訓練する場所が少なくなり、寺院の施設を転用でき米軍の爆撃を受けにくいことから高野山に訓練部隊が8月に置かれていた。飛行機乗りを目指してきたはずなのに練習機や模擬機もなく、須藤さんも整備にかかわる教育をほとんど受けられなかった。訓練といっても陸戦を想定した一般的なものが大半だった。

  ◇「震洋」の格納庫掘り、朝鮮人監督にイモもらう 

 昭和20年3月、和歌山県由良町の紀伊防備隊に異動となった。由良湾の周囲の小山の頂上の監視哨には、高射砲台や機関砲台が構築されており、須藤さんは支援員として山腹に掘られた弾薬庫から弾薬を運び上げた。備えられた96式25ミリ高角機銃は左右の方向を調整する旋回手と、仰角と発射を担当する砲手が操作した。来襲する米軍機の機種ごとに発射のしかたが想定されており、須藤さんらは弾薬を運び上げた後、「訓練開始」「P51撃ち方はじめ」の号令で、方向や仰角を速やかに定める訓練を重ねた。弾薬は重く、何度も運んだり、詰めたりするのは辛かった」。

 訓練にとどまらず、機銃掃射をかけながら低空を通過する米艦載機を迎撃した戦闘も二度あった。すぐ横まで銃弾が飛んで来て、思わず堀の中の壕の中に飛び込んだ。

 紀伊由良ではアオガエルと呼ばれた特攻兵器「震洋」が配備され、出撃を待っていた。震洋はべニヤ板で造られたモーターボートで、先端に爆薬を積んで敵艦に体当たりする。「震洋」の格納庫として海辺の岩場に穴を掘ることになり、主に徴用された朝鮮半島出身の人々が当たっていた。須藤さんら予科練出身者7、8人は週1、2回動員され、
朝鮮人の監督者のもとで作業した。「親切な人だったので、その人に教えてもらった掘り方通りに働いた。お腹がすいて仕方ない時にイモを分けてもらい、ほんとにうまかった。私はここでも一番最年少で、監督は40くらいの人だったので、子供のように思って目をかけてくれたのではないか」と須藤さんは思い起こす。

 「震洋」については、須藤さんの一つ上の先輩は搭乗員として選ばれていた。夜間に海上で訓練している模様はうかがえたが、秘密保持が徹底されていたのか、実際の船体を見たことは一度もない。

   ◇激しい機銃掃射の中、撃沈前に海防艦から飛び込む 

 終戦の直前7月28日、湾に停泊していた海防艦が米艦載機の爆撃を受けて沈没した。その日須藤さんは、仲間と二人で船の修理のため物資を運ぶ任務で来ていた。岸壁から海防との間は小舟に物資を載せており、家の手伝いで櫓を操るのに慣れていた須藤さんは、自ら手を挙げて任務に就いた。仕事が一段落して艦長から「せっかくだから艦内を見ていったら」と言われて艦に上がった。その時、グラマンがやってきた。どこかに行ったと思ったら、真上から撃ってきた。須藤さんはとっさに海に飛び込んだ。しばらくすると死体がたくさん揚がってきて、浜で火葬した。一体焼くのに8時間くらいかかった。「飛び込む直前に、海の水が真っ白に見えた。それだけ激しい機銃掃射が続いていたんだろう」。

 この日の海防艦撃沈では83人が死亡、7月20日の爆撃と合わせ95人が犠牲となった。うち13人の遺体は8年後に艦とともに引き揚げられた。「たまたま乗艦していた私はとっさに飛び込んで助かったが、乗組員は艦からすぐ離れられず、逃げ遅れて亡くなった人も多いのでは…」。須藤さんにとって今も頭から消えない惨事だった。 

   海岸に集められ玉音放送、聞き取れず夜に敗戦知る 

 8月15日の正午、須藤さんらは由良の海岸に集められラジオの玉音放送を聞かされた。ラジオの雑音がひどくて天皇陛下が何を話されているのかほとんど聞き取れず、上官もわからなかった。夜に再び兵舎に集められ、日本が敗れたことを伝えられた。「特攻隊員になった先輩のような気負いはなかったが、それでも何かの間違いではないかと敗戦を信じられなかった」。

 将校の一人が「帝国海軍は負けないんだ」と万歳三唱したが抵抗の動きには至らず、翌日から撤収の作業が始まった。「兵票などを持っていたら米軍に去勢されてしまうと言われ、全部捨てて帰ってきた」。それで、兵標の番号は正確には覚えていない。

 1週間由良で終戦の残務処理に当たった後、高野山に戻ってここでも撤収作業。茨城県のふるさとに帰ったのは9月になってからだった。「中学には戻らず、しばらくは特攻隊神雷部隊の操縦士として活躍した予科練の先輩について遊び回った」という須藤さんの戦後が始まった。

 戦後の生活で予科練の体験が生きたこともあった。「規則正しく、迅速に行動することが身についたのは良かった。特に時間をきちんと守ることはその後の人生で役立った」。 一方で、「海軍精神直入棒でひっぱたかれた時の呼吸が止まる痛み、一列に並ばされてあと2、3人で自分の番という時の何とも言えない気分は、今も忘れられない」と須藤さんは振り返る。

 由良湾の海辺で玉音放送を聞いてから73年半。須藤さんは今も元気で、猟犬を車に乗せて山に入り狩猟を続けている。

                       (文・写真  小泉 清)=2019.2.25取材 
 
 
須藤さんはその後、由良町を訪れることはなく、私もお目にかかる機会がありませんでした。双方の愛犬を通して知り合いになった大辻永さん=東洋大理工学部教授(理科教育学)=が須藤さんの戦争体験を聞き、さらにネット上で拙稿を読んで、私とつないでいただきました。私は2月末に大辻さんと須藤さん方を訪問、「由良町戦争遺跡マップ」をお見せして、話を伺いました。紀伊由良での戦争の実像の一端を明らかにしていただいた須藤さん、その機会をつくってもらった大辻さんに深謝します。

 [参考図書]
●楠本金次ほか編「高野山海軍航空隊隊史」高野山海軍航空隊供養塔奉賛会、1999 非売品。国立国会図書館東京本館で所蔵。

 部隊の発足から解隊までの歩み、組織、教育・訓練の内容などを当事者の手で詳述している。昭和19〜20年に在隊した予科練生らの手記を収録。▽昭和19年12月に新特攻兵器の搭乗員に志願して長崎県の大村湾で「震洋」の訓練を受け、終戦を出撃基地の奄美・喜界島(鹿児島県)で迎えた▽昭和20年6月に450人で由良町に行き高射砲構築に当たったが、未完成のうちに終戦となった―などの記録が寄せられている。
 須藤さんの期のように「特攻兵器には乗らなかったが、実戦には参加した」記録は未収。わずかな時期の差で大きく運命が変わった予科練の姿をより知る意味からも、須藤さんの証言は貴重だ。

●九条の会ゆら「由良町内戦争軍事遺跡ウォーキングマップ」2009 同会で頒布


   70年前の夏忘れず 本土決戦の拠点・紀伊由良巡る=2015.8.7取材

     特攻艇「震洋」 荒海で出撃訓練重ねた日々 =2016.6.18取材

     
「語り継ぐ会」12回、 海防艦犠牲者の兄の思い=2016.6.18取材
      
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