4月中旬ともなると「桜の季節は、はや終わって」とは、関東以南の平野部に限って言えるあいさつ。4月19日に着いた盛岡市では盛岡地方裁判所前の「石割桜」が陽気を受けてほぼ満開(七分咲き)を迎えていた。
北国の城下の春 たっぷりと巡り歩き
エドヒガンの古木で、幹によって薄紅と白の色の花が楽しめる。南部藩家老の屋敷の大きな花崗岩の庭石の割れ目に入った種子から育った芽が、岩を割って育ったので石割桜桜。樹齢は370年を超し、幹回り4・6m、樹高11m、四方に枝を広げている。年配の女性にうかがうと「私が若い頃はもっと花が多かった。樹勢が衰えながら頑張っているという感じです」。それでも「盛岡の桜といえば、やはり石割桜」。ちょうど昼休み、地元の人や観光客が集まって撮影する中、ボランティアガイドさん4人が熱心に説明していた。
◇啄木の父母ゆかりの寺、流れ落ちる白い花
レンタサイクルで中心部から700m北の北山へ。ここは盛岡藩主に封じられた南部氏が城下の街づくりのため領内各地から移転させた有力寺院を集めた寺町。その寺の一つ、曹洞宗の龍谷寺では、やはり国天然記念物ののモリオカシダレは19日は五分咲き。ただ、21日に姫神山から下山後また訪れると、2日間の陽気ではや満開を迎えており、白い花をいっぱいつけた枝が垂れ下がっていた。エドヒガンとソメイヨシノの間にできた種で、全国でも限られた本数しか見られない。
本堂裏の墓地を見ると「金田一」の姓が多く、金田一京助の名を刻んだ碑があった。啄木の盛岡中学以来の親友で、日本語アクセントやアイヌ語の研究で知られる学者。寺の掃除に集まっていたおばさん6人によると、金田一家は薬局経営など地元で有力な家らしい。
この寺は啄木の母・カツが生まれた寺で、その兄・葛原対月の弟子だった一禎と結婚したという。結構格野高い寺のようなので、カツが気位が高く、啄木を溺愛したこともうなづける。
同じく曹洞宗の東顕寺の裏手には三ツ石神社。ご神体の三つの花崗岩の巨岩があり、里人を苦しめて三ツ石様に退治された鬼が「二度と来ません」と岩に押した手形が残っており、これが岩手県の名のもとになったという由緒ある神社だ。先のおばさんたちの話では「鬼の手形は以前は苔が生えていたのでわかりやすかったのに、今は乾燥して苔が生えないのでわかりにくくなりました」と話していた。
報恩寺は禅僧を養成していた曹洞宗の中心寺院で、山門も立派。享保年間に京の仏師が彫った499体の木彫・漆塗りの羅漢像に圧倒される。
◇青春の賢治が学んだ寺町・北山
曹洞宗のお寺が目立つが、浄土真宗大谷派(お東さん)の本誓寺は、親鸞聖人の高弟・是信房が奥羽伝道の拠点として築いた寺が移転。自ら刻んだと伝えられる親鸞聖人座像がある。
震災で運休中のJR山田線を越えて北へ歩くと浄土真宗本願寺派(お西さん)願教寺。幕末・維新に教団の近代化を引っ張り、新政府要人とのパイプを生かして政教分離を進めた島地黙雷が晩年に住職を務めた寺。養嗣子として住職を継いだ島地大等も仏教学の第一人者。宮沢賢治も法話を聞いて大きな影響を与えたことで知られる。
境内には立派な庭がつくられ、ご門主が訪れた時に記念植樹した紅枝垂れ梅も育っている。島地大等を悼む九条武子の歌碑、宮沢賢治の歌碑も建てられている。
宮沢賢治は盛岡中学在学中、時宗の教浄寺など三寺に下宿して勉学に励み、報恩寺で参禅するなど、北山との縁は深い。
◇満開時期は5月初頭から4月中に早まる
北山から2キロ北西の「日本の桜百選」の高松池はやや北寄りのせいか「あと一週間はかかる」というところ。それでも「2、30年前は盛岡のソメイヨシノの満開は5月になってからだったのに、今は4月中と随分早くなった」と年配の男性は話していた。私も40年ちょっと前、連休の5月5日に春山を下りて盛岡城址に寄った時、家族連れが花見を楽しんでいた光景を思い出した。地球温暖化の影響はこうしたところにも出ているのだろう。
境内や道沿いのモクレン、コブシと一斉に開花していて、桜に限らず見応えがある。寺社を巡りながら啄木や賢治の足跡もたどれ、豊かな盛岡の春を楽しめた。
(文・写真 小泉 清)
★残雪の姫神山 2018.4.21
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