開花が遅れ、雨が続いた2017年の花見のシーズン、晴れ間を選んで地元豊中市のミニ花見スポット・蛍池の圓満寺を訪ねた。「野球の名付け親」中馬庚(ちゅうまん・かなえ)(1867-1902)が眠る寺だ。
墓に白球浮き彫り 中馬庚の功績しのぶ
寺は阪急宝塚線蛍池駅の南東、刀根山病院南の小高い丘にある。南側の山門から石段を上がると正面に本堂、左手に鐘楼があり、ソメイヨシノの大木が堂を包むように枝を広げている。境内の各所に桜の老木が見られ、年輪を感じさせる。奥の墓地に入ると、台石に白球を浮き彫りにした墓=写真右=がすぐ目に入り、「中馬家之墓」と刻まれている。
◇普及に貢献、野球殿堂入り
鹿児島県出身の中馬は、日本での野球導入をリードした第一高等中学校(後の旧制一高)で二塁手として活躍、米国人チーム横浜倶楽部との試合でも指導者として勝利の立役者となった。1894年(明治27年)にベースボールの訳語として初めて「野球」を用い、続いて日本初の指導書「野球」を著わした。野球の普及に貢献したと1970年(昭和45年)に野球殿堂入りしている。
住職の伊串義道さんに伺うと「晩年蛍池に住み、宗派が曹洞宗だったので圓満寺を墓所に選んだのでしょう」などと説明してもらった。伝記などによると、中馬は東京帝大卒業後、教育界に進んだが、1917年に徳島県の脇町中(現・脇町高)校長を辞職して大阪に移り銀行に進んだ。1929、30年に選抜高校野球大会の選考委員になっているが、大阪時代の中馬の動きについてはあまり伝えられていない。
◇センバツ出場の球児らが墓参
豊中市といえば1913年に豊中グラウンドが開設され、1916年には高校野球の前身、中等学校優勝野球大会の第一回大会が行われた地。開場記念試合として慶応大とスタンフォード大の日米野球戦が行われ、実業団野球の会場に何回もなるなど野球の聖地といえる場所だ。中馬の居宅が蛍池のどこだったかはわからないが、円満寺と豊中グラウンドの距離でも1キロちょっと、歩いて5分程度。中馬が大阪の中でも豊中を居住地に選んだのに、豊中グラウンドの存在が関係したかどうか。
圓満寺の墓も地元でもほとんど知られていなかったが、15年ほど前から野球史の研究者らが訪れるようになり、高野連事務局も着目。命日の3月21日が春の選抜高校野球の始まる時期なので、参加校のうち有志の監督・選手らが参拝した時もあり、松井秀樹選手や田中将大投手も来ていたという。北海道のチームは飛行機で大阪空港に着いて近くのホテルを宿舎に使うので、毎年訪れるそうだ。
階段わきのカエデは新緑の季節を迎えて翼果が目立ってきた=写真上。秋の紅葉が楽しみだ。山門前の箕輪池は、少し東側の蛍池より昔ながらのため池の雰囲気を残していて冬には水鳥が飛来してくる。解説板などはないが、墓参りは自由。近場の散策コースとしてもおすすめなので、立ち寄って「野球の名付け親」をしのぶのもいいだろう。
(文・写真 小泉 清)
★「高校野球発祥の地」確かめる記念公園 2017.4.6取材
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