里の田に早開き告げた「ノタの白雪」             
  下山後、高山の集落で明治初めに創業した旅館「高佐屋」を受け継ぐ高山佐藤繁さん(73)に金糞岳にまつわる話を聞いた。

 高山のむらはかつて養蚕の中心地として栄えた。繭から生糸をつくる「糸取り」に岐阜県の旧坂内村などから多くの人が鳥越峠を越えて訪れ、結婚をはじめ交流が活発だったという。炭焼きも盛んでナラやホソの木を炭にしていた。高山さんは「昔の登り口だった追分には1軒に1台、計100台の荷車が並び、山に食料を運びこんだり、炭を運び出していました。子供も10歳くらいになると山の仕事を手伝うのが当たり前のことでした」と振り返る。「尾根沿いには炭焼き窯、谷筋には頂上近くまで桑畑が作られていました。昔は子沢山だったこともあり、高い場所の谷筋にも田んぼを開いていました」。今では考えられないほど、山はむらの生活を支える拠点だったのだ。

 「昔は今よりずっと雪が多く、6月10日ころになって金糞岳の尾根の雪が解け、ゆるやかな斜面のノタにだけ雪が残る様子が里から見えました。これを『ノタの白雪(しらゆき)』といって、虎姫あたりまでの農家では『ノタの白雪になれば、早苗を田に植える早開き(さびらき)をする』ことになっていました」いう。山に社寺ゆかりのものがないのも、里と山とのかかわりがそれだけ恒常的で一体化していたからかもしれない。

  ◇養蚕、炭焼きは消えても山とつながり

 こ うした山との強い関係が断たれる転機となったのは1959年の伊勢湾台風だったと高山さんは回想する。この台風被害で山が崩れ道が寸断されて里から山に行けなくなった。一方で決壊した河川の護岸工事が10年にわたって行われ、山に頼らなくても収入を得られるようになったという。このころから薪炭の需要が急減、長浜周辺に工場の進出が相次いだことが、里の人々の山離れを決定的にした。南側の高山だけでなく北側の山麓のむらからも八草峠~八草越の道を通って炭焼きに上がって来ていたが、北麓からは通う人もなくなり、八草越の道も廃道となたという。

 「ノタの白雪」も、地球温暖化の影響からか今は5月中にほとんどの雪が解け、田植えも黄金週間に行うようになったことから過去のことばとなってしまった。

 高山さんの場合、旅館や持ち山、そして金糞岳から流れる草野川を通じて山とのかかわりは続いている。もともと養蚕業者などが利用していた高佐屋は、今西錦司博士が泊まるなど金糞岳登山の基地としても使われてきた。頂上の標高を示す石柱は明治100年を記念して父の佐代右さんが寄贈、高山さん親子ら4人が12時間がかりで運び上げたそうだ。

  ◇魚が獲れるのも豊かな森があってこそ

 広域林道を利用したマイカー日帰り登山が主流になってきたが、今も年間40人ほどの登山者が「高佐屋」に泊まり、中津尾根以外の道を組み合わせたルートをとったり、麓から歩き通す。「避難旅館としての役割は今後も果たしていきたい」と高山さんは話す。

 「7本の木は切っても3本の木は残すように」と言われて育った高山さんは、長年携わってきた内水面漁業組合連合会の仕事を通じて「魚が獲れるのも豊かな森があってこそ」ということを実感してきたという。

 
 草野川は6月はアマゴ釣りでにぎわい、7月半ばからはアユが解禁される。「釣り客が増えているので稚魚も放流しますが、自然環境が保たれているので天然のアマゴもいっぱいいます。最近は釣り客や登山者のマナーが良くなってゴミや空き缶も持ち帰るようになったのは嬉しいですね」と高山さんは話す。将来も金糞岳と里は新しい形でつながっていくに違いない。                   (小泉清) 
                                    
                                    
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