大塩のノジギク 兵庫県姫路市 | ||||||||||
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赤穂より前から塩づくりが行われてきた姫路市大塩町は、戦前に牧野富太郎博士が「日本一のノジギクの群落地」と称えた土地だ。街の北東部を走る日笠山連山には、地元の人たちの手で自生種のノジギクのお花畑が復活、播磨灘を見下ろす斜面を白い花が包んでいる。塩田の水路・澪(みお)の岸辺でも再生が進められている。 播磨灘の潮風と陽光受けて駅前から東へ古い町並みを抜けると、日笠山へ向かう上り坂になる。延命地蔵尊を拝んで坂を上がると「日笠山ノジギク園」、右手にノジギクの白い花が広がっている。春は花見どころとなるだけあって桜紅葉も鮮やかだ。少し登ったここからでも姫路から高砂、加古川に連なる街並み、山陽電車、播磨湾を見下ろせる。園を出て、北へ進むと日笠山頂。標高62mの「山」だが、四等ながら三角点もある。杖をついた年配の男性が一服していた。「ノジギクの花を見ようと久しぶりに登ってきました」とのこと。少し足が不自由でもゆっくり歩けば頂上に立てるいいコースだ。ここからは姫路・高砂市境の尾根道、急な坂の上に「夫婦(めおと)岩」と呼ばれる二つの巨岩があり、その手前の斜面をノジギクが埋め尽くしていた。「夫婦岩」からは日笠山連山随一の播磨灘の遠望が得られる。姫路から高砂へ続く海岸は工場や発電所が多く立地し、わずかに砂浜や海崖の自然海岸が残っている。船が航跡を描く播磨灘の向こうには淡路島が横たわる。空気が澄んでいる11月は日によって鳴門大橋の橋柱もよく見えるという。 夫婦岩からは、右手に天川をはさんだ高砂市の市街や北側の山並みを見ながら尾根道の上り下りを繰り返す。ハゼなどの紅葉も見られ、低山ながら30分ほど山歩きを味わうと馬坂峠に着く。昔から残る段々畑や切り開きのがけに自生のノジギクも見られる。この峠で下山する人がほとんどだが、「全山縦走コース」という案内板に引っ張られてそのまま30分ほど牛谷まで縦走を続けた。尾根道にはノコンギクの薄紫の花やユニークな形のヤツデの白い花も見られ、紅葉が進む清勝寺山が目の前に迫ってくる。標高100mながら立派な縦走路だ。 ◇塩づくりと盛衰ともにしたノジギク 街に下りて大池わきの「のじぎく公園」で一休みしてから「日笠山のじぎく園」に戻った。年配の男性5、6人が「野路菊亭」に集まって花の世話や見学者の説明をしている。この「のじぎく園」、こうした地元の普通の人たちが造成して8年前に開園した花園。グループの企画担当という山本幸雄さん(78)にうかがった。 ノジギクは兵庫県が自然分布の東限であることもあって県花とされ、野菊の代表格として知られているが、なぜ大塩で大切にされているのか。「大塩では昭和46年まで製塩が行われていましたが、ノジギクと塩づくりは切っても切れない縁があるんです」と山本さん。「海浜の入浜式塩田には澪(みお)と呼ばれる水路が張り巡らされ、潮風に強いノジギクは澪の土手にびっしりと生えていました。また、この日笠山をはじめ大塩の裏山は、塩づくりに携わる浜衆人(はましゅうど)が、作業の合間にイモや麦を作る段々畑として耕し、南側の斜面にノジギクがいっぱい咲いていました」。畑仕事で雑草が取り除かれるため、ノジギクにとって陽光と潮風を受ける段々畑は最適の生息環境になっていた。 しかし、昭和30年ごろから製塩が塩田や人手をそう使わない流下式に変わると、海辺も山もノジギクに住みにくくなってきた。「製塩の仕事から会社勤めに替わると段々畑を耕すことも少なくなり、放棄された畑にはトキワススキやメダケがはびこってノジギクが育たなくなりました」。 ◇地元の人々が育て広げて復活 一方、20数年前から大塩を中心に「ノジギクの花で真っ白に染まった山が海から見えたという風景を取り戻そう」という声が強まり、地元の保存会の守谷利永さんや馬坂峠の日野博之さんらがノジギクを育てる活動を続けてきた。こうした取り組みを受けて、山本さんら大塩の顔なじみは「日笠山に再びノジギクを」と地主の理解を得て、雑草に覆われ竹やぶになっていた山腹を切り開いた。大塩で自生していたノジギクを受け継ぐ種から苗を育てた。牧野博士が日笠山で見つけたキバナノジギクは、自生地に残っていた1株から株分けや挿し芽で殖やした。塩田地主の家に生まれた山本さんにとっては、地元の百貨店を退職後、漁業に10年従事した後の仕事だった。 現在のメンバーは8人。「日笠山のじぎく園は平地でのノジギクの植栽は一段落したので、斜面に自生しているノジギクの保全に力を入れています。草刈りをきちんとしておけば、自生種の種が自然と伸びていきます」と息の長い活動を続けている。 山本さんらと協力して上の夫婦岩付近のノジギクを見ているのは高砂市から通う藤城平男さん(71)。定年後ハイキングに来た時、竹やぶを切り開いていた人に出会い「いい景色が見られれば」と手伝っているうちにノジギクが伸びていることに気づいた。「40年も竹やぶに埋もれていた場所に、また育つとは・・・」と感動。株分けしたノジギクを同園で殖やしてもらい、開墾した場所に群生地を広げ、種が飛んで斜面に自然に広がるようになった。ただ、多年草でも5、6年たつと株が弱り花も小さくなってきたので、この春に園から400株を分けてもらい植え直した。今夏の酷暑と日照りで50株ほどは枯れたが、浴槽を転用した貯水槽にためた雨水をまいて守った。 ◇牧野富太郎博士が賞賛、種を保つ課題も 今年は、「ノジギクの大塩」の名を全国に高めた牧野富太郎博士の生誕150年とあって、園内の「望海亭」には牧野博士を紹介したパネルを掲示している。牧野博士が大塩の塩田でノジギクの大群落を発見したのは1925年(大正14年)。「牧野博士は大塩を何度も訪ね、大塩駅前の料理旅館に泊まって2、3日かけて自生地を回ったそうで、旅館の名も『野菊亭』に改名させたといいます」と説明してもらった。牧野博士が大塩のノジギクに寄せた熱い思いをうかがわせる。パネルは園の近くに住む大塚岩男さん(66)が小学校でノジギクや塩田を中心に大塩の歩みを話した時に作成し、往時の入浜式塩田の写真なども掲載した力作だ。 牧野博士が称え、地元で再生を果たした「大塩のノジギク」の名は高い。それだけに交雑を防ぎ、種を保つ課題もある。元姫路科学館館長の家永善文さんは「ノジギクは家庭で栽培されているイエギクと交雑しやすく、紫色がかった花も見られるようになっているので、十分注意することが必要です」と指摘する。また、ノジギクの中でも大塩に自生するセトウチノジギクと四国の足摺岬のアシズリノジギクでは葉の薄さなどで違いがあり、こうした地域的な変異も軽視できないという。「種や株の提供は、兵庫県内でも瀬戸内海側、東は六甲山系までに限っています」と山本さんも話していた。 ◇繁栄の情景しのぶ澪、新たな花の散歩道に 山側に比べて目立たなかった海側での再生の動きも高まってきた。塩田跡を利用した倉庫や空き地が広がる大塩駅南側には東、中、西の三本の澪が残っており、駅から一番近い中澪を訪ねた。幅6mくらいの水路が南北5、600mほど浜側に続いている。斜面には石積みが残り、しっかりした構造になっている。その斜面や土手をノジギクの白や黄色の花が白く染め、水面に姿を映していた。 澪に沿って「潮風にのじぎくが揺れる大塩の自然環境を大切にしましょう」と書かれた町民ボランティアや連合自治会の立札が掲げられている。中澪は大塚さんらが花芽の伸びる3〜7月に月2回は草刈りを続け、ノジギクが復活してきたという。西澪は以前草刈りをしていた人ができなくなって草が生い茂ってノジギクが消えてしまっており、人の力の大きさを感じた。 「山側の群落を歩いた後で、浜側のノジギクを見たいと、観察コースとして歩く人も増えてきています」と山本さん。昔、澪には菊の懸崖(けんがい)のように垂れたノジギクの花が続き、その中を、塩や石炭・マキなどを積んだ運搬船の「上荷(うわね)」が進んだという。家永さんは「澪はノジギクの生息に適した場所なので、トキワススキなどの刈り払いが進めば、まとまった自生地が戻るでしょう。ノジギクの花の季節に、昔使われた舟を出して澪を巡り、ノジギクの懸崖の下をくぐれるようになれば・・・」と夢を描いている。 (文・写真 小泉 清) 海岸の急崖にもたくましく 晩秋はノジギクが主役 神戸の牧野公園 |