★第五福竜丸の古里・古座 船大工道具が語り継ぐ | ||||||
1954年3月1日、米国がビキニ環礁で行った史上初の水爆実験で放射能を浴びたマグロ漁船「第五福竜丸」。機関長の久保山愛吉さんが死亡し、原水爆禁止運動の象徴となったこの船は現在、東京・夢の島の東京都立第五福竜丸展示館で保存・展示されているが、この船の古里は古座(和歌山県串本町)の古座川河口部の中州にあった造船所だ。 今でもJR古座駅から古座橋を渡ると南側に中州が見えるが、当時の中州はもっと東寄りで大きかったそうだ。終戦翌年の1946年秋、中州の下流部にあった古座造船所に神奈川県三浦市の漁業会社からカツオ釣り船「第7事代(ことしろ)丸」の注文があった。カツオ漁の始まる翌年4月の完成が求められたため、船大工8人は「星から星」(早朝から夜)まで働いたという。そのかいあって半年で完成、4年連続でカツオ一本釣り日本一に輝いた。昭和27年には静岡県焼津市の船主に売られ、マグロ漁船「第5福竜丸」となったが、4回目の漁の途中で被爆した。その後、東京水産大の実習船となったが、同42年に廃船となり、夢の島で放置されていたところを市民の声が起こって保存が実現した。 この船大工8人のうち最年少だった西田繁三さんは、昨年7月12日に89歳で死去した。他の船大工はすでに亡く、中州は流されて造船所の跡もないが、西田さんは2010年3月に造船当時に使った道具30点を串本町に寄贈していた。 今回古座を訪ねる際に、第五福竜丸の歴史を伝えるこの道具を見たいと、串本町役場に問い合わせると、串本駅近くの町文化センター2階に展示しているとのこと。古座庁舎にある教育課で平和学習担当者に用意してもらった資料を受け取り、夕刻に古座川河口の「第五福竜丸建造の地」記念碑に寄ってから町文化センターを訪ねた。 ◇「自分の手のようなもの」だったチョウナもセンター2階の「第五福竜丸建造船に使われた船大工道具」と書かれてたガラスケースに30点すべてが展示されていた。資料と照合し担当者に尋ねながら道具を見ていく。カンナでも、引き跡を削り取り滑らかに仕上げる四分カンナ、これをさらに細かく仕上げる八分カンナ、曲がった部分を削るマルガンナ、局面に使う小さなコガンナと四種ある。船大工ならではの道具としてノミウチも注目。板の接合面からの水漏れを防ぐため、ヒノキの樹皮をたたいて縄にした槙肌をノミウチでたたきこんでおくと、海水に触れた槙肌が膨らんで水の浸入を防ぐ仕組みになっている。材木を割るヨキ、曲面を削るチョウナ、万力の役割をするキリンなど大型の道具もあり、特にチョウナは西田さんが「自分の手のようなもの」と語っていた。どれを見ても、力と技と知恵を備えた船大工の魂が感じられる道具だ。こうした道具を使いこなして造った船だからこそ、第五福竜丸の被爆を聞いたとき「涙が止まらなかった」のだろう。 担当の町職員によると、この道具の寄贈を受けた一昨年の8月7日から15日の間、道具のほかに戦争中の物品や写真を加えた「串本町平和展」を町文化センターで開催。「毎年は困難でも、節目節目で船大工道具を生かした展示会を開きたい」としている。 イベントまでいかなくても、もう少し第五福竜丸関係の写真や説明を加えた展示室やコーナーを設ければさらに有意義とも思ったが、せっかくの寄贈品を倉庫の奥で死蔵している自治体が多い中で、展示公開をしている点は評価できる。船大工道具という産業遺産の面でも貴重な品だけに、町民や核問題に関心がある人に止まらず、観光客らにも積極的に広報しても良いのではと感じた。 ◇寄贈の西田さん、最期まで船に思い強く 西田さんは、古座のくらしの中心といえる河内祭で古座川を巡る御船の修理や管理を続け、さらに国の重要無形民俗文化財の古座獅子の名手で指導者として2009年度の地域伝統文化功労者表彰を受けた。私が古座の人と話す中でも「師匠」「繁やん」と尊敬と親しみを込めた呼び方をよく聞いた。 この船大工道具を見る前に、古座の街中を桝田義昭さんと歩いていると、西田さんの妻の育代さん(85)と出会えた。7月に一周忌を迎えるが、「本当に元気な人で、皆さんによくしてもらい、おかげさまで古座獅子で表彰していただけました」と丁寧に話す育代さん。「古座の造船所がなくなってからも、船大工としての腕を買ってもらい、三重などの造船所から呼ばれて仕事に行っていました」「娘が千葉に住んでいて、今度は夫婦で第五福竜丸記念館に行こうと話し合っていたところでした」などの話をうかがった。西田さんが船大工としての人生を貫き、また最期まで第五福竜丸のことを心にとめていたことがよくわかった。 (文・写真 小泉 清) →本文のページへ戻る |