JR古座駅から古座川橋を渡り、川に沿って古座街道を少し北上すると、古い家並みと道をはさんでセンダン並木が続く。一つ一つの五弁の花は小さいが、見上げるとセンダンの花々が新緑の葉を薄紫に染め、古座川の流れ、照葉樹の山並み、そして南紀の青い空に溶け合って初夏の到来を告げていた。
川筋と街道沿いに山と海のもたらす宝
この並木はいつ、どのように植えられたのだろうか。格子窓の町家から出てきた堤京子さん(80)と、隣の小田良一郎さん(82)らにうかがった。現在の並木は二代目で、初代は明治時代に古座川筋を舞台に木材や炭を手広く扱っていた佐藤長右衛門ゆかりの木らしい。長右衛門が九州からセンダンの苗を持ち帰り、現在の古座川町役場の周辺にあった広い屋敷に植樹したと伝えられるが、当時川岸だったこの場所にもセンダンが植えられた。丸太のままの「管流し」で上流から運んできた木が木場から流れ出さないよう網をかけ、その網をシュロの綱でくくるのにセンダンの幹が使われたという。センダンは木質が強く、成長も早く南紀の風土にも適したので、大切にされてきたのだろう。
◇管流しの歴史伝えるセンダン、葉陰で夏涼しく
戦後、川の一部が埋め立てられて丸太置き場となり、初代のセンダン並木も、昭和35年に道路が拡幅された時に切り倒されてしまった。しかし、自宅前にセンダンの木を植えた小田さんら近隣の住民の手で、自然と並木が復活したという。「その頃には木の搬出もトラックに切り替わっていて、綱をとめる木としての役目はもうありませんでした。しかし、センダンの葉陰のおかげで夏は涼しく、並木になじんでいたので、すぐに植え、その木がここまで大きくなりました」と小田さんは振り返っていた。
小田さんは昭和40年ごろから、古座川流域から集めた原木を製材所で委託加工して東京方面に送り出していた。木材需要の縮小などで事業は10年ほどで終えたが、「古座川筋の材木はスギもヒノキも油気があり、耐久力があるうえ、磨けばつやが出て、関東では古座角(こざかく)と呼ばれて家の柱として高い評価を受けていました。今は建築材が規格化され、古座川の木の良さが生かされなくなってきたのは惜しいことです」
という話に木への熱い思いが感じられた。
短い花期が終るとセンダンは葉を茂らせて緑陰をつくるが、秋になると大量の落ち葉となって街道を覆う。「夏に涼しくしてもらえるお礼にと思って、隣近所で落葉掃除を続けています」と堤さんは話していた。
丸太置き場は駐車用地に変わったが、堤さんや小田さん宅をはじめ古い町屋の風情が残っているからこそセンダン並木が映える。 堤さんの夫も製材事務所の所長など木材関連の仕事をしてきたが、その曾祖父は古座川筋の水運の拠点だったこの地の利を生かして米や塩、たばこを扱い、呉服店も営んだ。
こうした町家は古座川とともに歩んだ地域の歴史の証人でもある。
◇木の最終ランナーは古座の木工所
古座川に沿って街道を下り、JR紀勢線と古座川橋が通る中湊を抜けて古座に入る。ここで、昨夏の河内祭以来お世話になっている桝田義昭(よしてる)さん(85)と出会い、
古い家並みの間を通る古座街道を上から下へ案内してもらった。昭和11年に紀勢線が開通するまで古座は大阪商船の定期船が1日1回通い、待機船も多く、町内には船客目当ての旅館や船会社の代理店もありにぎわった。
先ほどの高池にあった木場や製材工場は、古座の対岸の西向(にしむかい)にも置かれたが、この材木を使った最終加工段階の木工所は古座に集まっていた。寺社の仕事も多かったことから、昔は10か所を数えていたという。唯一残る橘木工所を訪ねると、店主は外の仕事で出ていたが、建具の箇所に応じて使い分ける大小各種のカンナが並べられていた。「狭い土地に家が集まる古座では、家具も規格品でなく、家ごとの間取りに合ったものでないと役に立ちません。一軒になったとはいえ、こういう木工店はなくてはならない存在です」という桝田さんの話に納得した。
◇地震に強く 善照寺築いた海の幹線
工務店の下手に進むと浄土真宗本願寺派の善照寺があった。石垣の上になまこ壁が続き、山門からカキツバタの咲く境内に入る。境内から見た山門も立派だ。本堂正面には仏を守る竜亀の精緻な装飾が彫られ、堂内に上がると、ケヤキの太い丸柱や梁がしっかりと組み立てられている。襖には狩野派の絵が描かれ、本山の西本願寺を思わせる荘厳な空気に浸っていると、地域学習に古座の街を巡っている古座小の3年生10人が上がってきた。山本昭隆住職(68)は「日本の木造建築はすごいんですよ。火事には弱いが、木は粘りがあって揺れを.吸収するので地震には強いんです」などと説明、昭和19年と21年の南海地震のときにも寺はびくともしなかったそうだ。
襖絵を描いた絵の具の顔料まで丁寧に解説する山本さんは、古座高校長で退職するまで教員を続けていただけに、子供を引き込む語り口だ。地元のグループ「大辺路切り開き隊」の街道歩きツアーが訪れた時に話すことも多い。「古座の文化遺産を知ってもらうとともに、こうした機会に仏様に手を合わせる心を伝えていきたい」というのが住職としての思いだ。
善照寺は、大坂の石山合戦で本願寺派の顕如上人を守って織田信長と戦った雑賀(さいが)衆の山本弘忠が剃髪し、天正9年(1581)に開いた。古座で勢力のあった小山氏や高川原氏が本願寺側だったことから「こうした反信長勢力との縁もあり古座に来たのでしょう」。 国重文の絹本著色阿弥陀三尊像は鎌倉時代の作で、功績のあった弘忠の出家に顕如上人が与えたという。
総欅(ひのき)造の本堂と山門は江戸時代中期の建立。「古座は上方と江戸を結ぶ廻船の中継地で物流の拠点として栄え、木材、漁業も盛況で地域の経済力が高かったので、門徒の寄進などでこれだけの建築が可能となったのでしょう。近年まで善照寺は古座御坊と呼ばれてきました」と山本さんに教わった。
◇関東布教の親鸞聖人 新たな絵伝に注目
多くの寺宝の中で、親鸞聖人御絵伝が最近学問的に高い評価を受けることになった。一般の親鸞聖人御絵伝は叡山での修行、法然上人との出会い、流罪など定まったパターンとなっているが、善照寺に伝わる絵伝は、20の場面すべてが関東での事跡となっている。親鸞聖人が鹿に乗せてもらっている絵もあり、山本さんは「鹿島神宮の権現様が聖人を尊崇され、権現様の使者である鹿が聖人をお送りしている場面と思われます」としている。描き方も独自性があって興味深い。今年2月に西本願寺近くの龍谷ミュージアムで展示され「新たな親鸞絵伝」として反響を呼んだ。
「京都での展示後、掛け軸の修復に出していますが、この秋に還って来たら寺で公開を予定しています。寺にあってこその寺宝と思っているので、よそに預けず大切に守っていきます」と山本住職。南紀・古座の善照寺でぜひ「関東時代の親鸞聖人」と出会いたい。
◇
山門を出て海側に歩いていくと、旅館、炭問屋跡など繁栄の跡を留める街並みが続く。一方で、魚市が立たなくなって閉鎖されたままの漁協会館、郵便局跡の空き地など仕事と人の流出に歯止めがかからない光景が目につく。先に訪ねた高池でも、空き家のままになって朽ちかけた家があった。需要の低迷に加え、集散地の移動などさまざまな要因で木材関連産業とともに地域の衰退が続いている現実は残念だ。
しかし、古座も高池も街道から一歩踏み込めば、新たな宝が見つけられる。祭の晴れの日だけでなく、ふだんの日々の暮らしの中で輝きを放っている人々がいる。
(文・写真 小泉 清)
第五福竜丸の古里・古座 船大工道具が語り継ぐ
[参考図書] 古座川町史編纂委「古座川町史 民俗編」2010、古座川町
中根七郎「古座史談」 1979、古座町
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