日ノ御埼から三尾の集落の見える南東を望む
    
花期 11月〜12月

交通 三尾はJR紀勢線御坊駅から御坊南海バスでアメリカ村下車。 日ノ御碕へは終点の海猫島から徒歩40分。御坊駅に駅レンタカー、レンタサイクル
電話 美浜町役場(0738・22・4123)
  2011年12月7日取材
                     
 
 紀伊半島の西端から紀伊水道に突き出た日ノ御碕(ひのみさき)。太平洋戦争開戦から70年を迎える12月8日の前日、松林が続く煙樹(えんじゅ)ケ浜から海沿いの道を自転車で走ると、明治時代からカナダに移民を送り出し「アメリカ村」と呼ばれてきた三尾の集落に入る。村外れからは自転車を押しながら坂を上り、岬の先に着けば、眼下に黒潮の流れる海が広がっていた。

  黒潮の彼方 カナダにかける夢

  日ノ御碕には車道が通じ、灯台、自衛隊のレーダー施設が建てられ、さらに2010年10月には3枚の巨大な羽が回る風力発電施設もできた。あるがままの自然に浸れるという環境ではない。それでも、国民宿舎わきの小道を上がり、「神武東征」の水先案内を務め航海の安全を司るという猿田彦をまつる日の山御崎神社の前を通って日の山山頂(201m)まで登ると、山道沿いにはセンダン、ヤブニッケイなどの照葉樹が次々と現れる。沖縄から台湾にかけても分布するシロダモの木も楕円形の真っ赤な実をつけていた。

 ◇青い海と空に映える多彩な野菊


 木々の足元をツワブキの花が彩っている。キクの仲間で、落ち着いた色調の黄の花と、名前どおりつやのある丸みを帯びた葉が、晩秋から初冬の時期に合ったしっとりとした雰囲気を感じさせる。京都や奈良のお寺の庭でもよく見かけ、紅葉の後の季節の情緒を演出しているが、もともと暖地の海岸に自生する植物。紀の国の青い海、青い空に似合う花でもある。

 黒潮分流が洗う日ノ御碕はキク科の植物が豊かなところという。灯台のまわりには薄い赤紫のヤマジノギク、白いリュウノウギク。岬への坂道に沿ってはキノクニシオギクやアゼトウナをよく見かけた。
 
 山頂から見る紀州の海の景観は雄大だ。北側に岬と入江が連なる海岸が続き、彼方には白崎の石灰岩の岬がくっきりと白く細く延びていた。北西には紀淡海峡をはさんで淡路の島影が見え、その向こうには四国の山並みが連なる。

 東側を振り返ると先ほど通ってきた三尾の家並みが海沿いにびっしり連なっていた。すぐ背後には山が迫っている。外から訪れた者には最高の眺望だが、浜のない岩場に荒波が打ち寄せる自然環境は村の人々には厳しいものでもあっただろう。

 ◇アメリカ村資料館にカナダから子孫も

 日の岬パークに設けられた「アメリカ村カナダ移民資料館」では、海に生きてきた三尾の人々の歩みを暮らしの品々や写真で伝えている。普段は無人だが、西浜久計館長の書いたくわしい説明パネルがあって、わかりやすい。地引網でシラスを獲る煙樹ケ浜に面した村々と違って三尾では沖合いに活路を求めた。江戸時代には房総半島までもイワシ漁に出かけたが、明治になって漁場争いに敗れた三尾の人々にとって新天地となったのがカナダだった。

 1988年(明治21年)カナダに渡った工野儀兵衛が、バンクーバーでサケの大群を見て驚き、三尾の人々に渡航を呼びかけてから123年。その間の苦闘の歴史の紹介の中でも印象的なのは、1941年12月7日(カナダ)の太平洋戦争開戦のもたらした衝撃だ。三尾の出身者を含む日系人2万2千人が強制移住させられ、抵抗した人は二重の鉄条網のある施設に入れられたと書かれている。

 背中に日の丸を描いた服を着た収容者の写真があった。「日の丸の収用服を着せられて最初はみんな喜んだが、日の丸は脱走した時の銃撃の標的だった」と写真説明にある。終戦を経て1988年にカナダ政府から謝罪と補償を得るまでには大変な苦闘があったことだろう。

 来館者のノートを見ると、移民や国際交流の研究者や学生が多く訪れている。老後は三尾に帰っていた昔と違い、戦後は東部に移る人が増え、住む場所もさまざまとなってカナダに根をおろしていって、子孫はカナダ人になりきっていく。ノートにも「祖母が三尾からカナダに来た」という人の英文の記述があった。「名前が書かれたトランクなどに感動しました。資料を集め、運営してきた館長さんらの尽力に感謝します」としながら「カナダに対する三尾の人々の貢献を広く知ってもらうために、展示の英文の表記を充実してほしい」と提言が書かれていた。

  ◇新住民にも語り伝える体験

 三尾の集落に立ち寄った。海と山の間のわずかな平地の路地に沿って家が立ち並ぶ。カナダからの帰郷者が建てたとみられる古い洋風の家は目につくが、資料館のナレーションが表現していたように「日本全体がアメリカ村となった」現在、「アメリカ」を強く感じさせるものではない。外見の印象は普通の小さな漁村と変わらなくなっている。紀州の他の漁村と同じく人口減が続き、移民の寄付金で改築された三尾小学校も廃校となり、空き家となったまま朽ちている家も見られた。

 ちょっと寂しい気持ちがしたが、嬉しいこともあった。8年前の2003年12月、太平洋戦争をはさんだ1938年から1946年の間、カナダで夫と働き、幼い子供二人を育ててきた話をうかがった小山ユキエさんは、95歳の今もはつらつとしていた。転出の一方、三尾には大阪などから海好きな人が移住してきているが、小山さんは昨年10月、こうした新住民のグループが開いた「アメリカ村学習会」に招かれ、カナダでの経験を話した。

 カナダ人になりきった三尾出身者の子孫にも、新たに三尾の村人になる人にも、自らの力と協力で困難を克服し、道を切り開いていった先人の精神は伝わっていくだろう。

                 (文・写真  小泉 清) 
   
      太平洋戦争下のカナダを生きて 2003.12.7、2011.12.7取材
      
      バンクーバーで切り開いた美容師の道  2003.12.7、2011.12.7取材

      ★ 国際化時代を先導 三尾発の精神  2011.12.14取材



日ノ御埼から東に三尾の集落を望む。カナダ移民を送り出し、アメリカ村の名で知られる村だ

<日ノ山のツワブキ>

<岬から>

<風力発電>

<アゼトウナ>

<キノクニシオギク>

<龍王神社のアコウ>

三尾〜日ノ御埼 初冬の海岸

和歌山県美浜町