★ バンクーバーで切り開いた美容師の道 |
戦後太平洋を渡って新しいカナダでの道を開いていった吉田栄子さん(85)=写真。ヘアスタイルも若々しい吉田さんはネーティブ・イングリッシュをまじえ、バンクーバーで美容師として働いていた時の話をたっぷり聞かせてくれた。
吉田さんは三尾の出身でなく和歌山市生まれ。終戦後、アメリカ文化がどっと入ってくる中で海外へのあこがれが強まり、知人の仲立ちでカナダから帰国していた三尾の男性と1948年に見合結婚した。
すぐにでもカナダに向かいたかったが、当時は厳しい渡航制限があった。8年たち最後の北米航路の客船「氷川丸」でハワイに寄ってシアトルを経てバンクーバーに着いた。さっそく食料品スーパーで働き出して缶詰などを売った。ダディー(夫)は戦前から漁業に従事していたが、これでは半年間別居しなければならないと庭師に転職した。
1963年に一度日本に3週間帰国し、再びカナダに渡った吉田さんは37歳で「美容師になりたい」という長年の夢の実現へ動き出した。「年齢としては遅かったけど、小さい時から頭をいらうのが好きでした。美容学校で懸命に勉強したので、人より早く半年でパスしました」。3年間店員として勤めた後、バンクーバーのメインストリートに店を出した。できるだけ広いカナダ社会の中に入っていこうと思っていた吉田さんは日系人の集まる街でなく、白人の中に混じって住んだ。5人の従業員も日系に限らないカナダ人を雇い、毎週決まった曜日に訪れる常連客もできて繁盛した。
「カナダの美容師学校の先生は、言葉がわかりにくい私に何度もわかるように話してくれました。男の人は本当のジェントルマンでしたね。私の方も、どうすればお客さんに喜んでもらえるか考えるようになり、『ハイ!エイコ』と遠慮なく店に入ってきてもらえるようになりました」。
夫のぜんそくが悪化したことから1977年に店を譲り三尾に戻った吉田さんは、カナダ時代に習った詩吟を日本国風流詩吟吟舞会の総伝師範・吉田國廳として指導してきた。
バンクーバーでしっかり働いたおかげで、今はカナダからも年金を受給して生活。週3回ヘルパーが訪問するが、髪は自分でセットし、ヘルパーさんの髪型にもアドバイスする。「店に来るお客さんはデパートの店員や事務所勤めの人が多かったのですが、お客さん同士もフレンドになり、とても楽しかったです」。ところは変わっても、いつも前に向かって歩いてきた吉田さん。カナダ仕込みか、身振り手振りをまじえた話を聞いていると、こちらの方もフレンドリーな気持ちになる。
(文・写真 小泉 清)
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