「空襲の苦しみ繰り返さない」追悼之碑に刻む 大阪府豊中市       
 
  大阪空港に接し、幹線道路が交差する豊中市走井(はしりい)地区。千里川に沿った浄行寺(じょうぎょうじ、浄土真宗本願寺派)の境内に、御影石の「追悼之碑」が建つ。裏面には「昭和二十年六月七日太平洋戦争ニ於ケル本土空襲ニヨッテ コノ走井地域ニモ一トン爆弾ニヨル爆撃ガアリ 四十有余命ノ貴イ生命ガ失ワレタ」と刻まれている。

◇飛行場に隣接した走井 猛爆で40人超す犠牲

 この碑文のように、当時の伊丹飛行場に隣接する走井地区には6月7日の豊中空襲で、B29が大量の1トン爆弾を投下、40名を超す人が犠牲となった。昭和30年代頃まで走井は田畑が広がる近郊農村地帯。住宅が立て込んでいたり軍需関連の工場が立地したところではなかったのに、こんなに激しい爆撃を受け大きな犠牲が出た。

 碑文の終わりには「平成六年六月七日」と記されている。1994年、空襲の日からまる49年、50回忌にあたる日だ。空襲時の寺の様子と碑の建立の経緯を楠原信海住職(73)にお尋ねした。

 ご住職は「私は戦後生まれで、詳しいことは聞いていないのですが…」と言われながらも、ご存知のことを教えていただいた。境内に爆弾が落ちたという話は聞いておらず、母は空襲時に竹藪の中に逃げたそうだが無事だった。教師だった父・中住(ちゅうじゅう)さんは疎開児童の付き添いで疎開先に出かけていたという。

 しかし、空襲当時住職を務めていた伯父の慧上師(当時57歳)は門徒さん宅を訪ねる途中、蛍池駅近くで空襲に遭い亡くなった。警察からの連絡で門徒さんら何人かで遺体を引き取り、浄行寺へ戻って本堂に安置した。本堂にはこの空襲で亡くなった人々が運び込まれていたという。地域の中心だった浄行寺、空襲による影響は大きかった。

 「追悼之碑」については、「碑の建立は、父が住職だった時。私はずっと首都圏勤務だったので、経緯はよく知りませんが、空襲で亡くなられた方の遺族の人たちの強い願いがあったと聞いています」とうかがった。
 
◇親きょうだい失った苦難乗り越え先導

 碑の礎石には、当時の住職・楠原中住師を含め6人の発起人の名が刻まれている。当時門徒総代だったのは橋本忠男さん(1934-2011)。奥さまの橋本ふみ子さん(86)に、忠男さんの足跡と碑に込めた気持ちをお尋ねした。

 空襲に遭った時、橋本さんは蛍池国民学校に通う11歳。弟とすぐ上の姉と3人はすぐ防空壕に逃げ込んで助かった。しかし、母と長姉、次姉は、結婚を間近にした長姉の婚礼衣装を取りに母屋に入った直後に、大型爆弾の直撃を受けて亡くなった。父はその日、田植えの植え手を頼みに兵庫県に出かけていて無事だったが、妻と娘二人を一瞬で失ったショックが大きく、1年後に亡くなった。

 橋本さんは近所の親戚に引き取られたが、12歳から橋本家の当主の責任を担った。戦後の混乱につけ込まれて先祖伝来の農地を取られたこともあったが、近所の人の支援で取り戻すことができ、中学卒業後は農業に一心に取り組んだ。22歳でふみ子さんと結婚、約束していた自宅の再建を3年後に果たした。(一度爆弾池になった場所だったので地盤が弱くなっていて、開け閉めの不具合など、空襲の影響は尾を引いた)。

 宅地化が進む中でも、橋本さんは環境を守る農業の大切さを強調、近くの箕輪小学校の児童に米づくりを教えたり、土を肥やし子どもが農業や自然に親しむ「れんげまつり」を地域の行事として根付かせた。「苦しい中でも、まわりの人に助けてもらってやってこられた。今度は人のお世話をする番」と、よく言っていた。
 空襲から半世紀を前に、橋本さんは思いを募らせた。「町の様子が変わっても、走井に何発もの爆弾が落とされて多くの人が亡くなり、残された家族が大きな苦しみを受けたことは忘れてはならない」。所属寺を問わず他の遺族や楠原住職と相談。多くの人の遺体が安置された浄行寺に追悼碑を建てることを決め、志を募りに奔走した。

 発起人の一人の山岸次郎兵衛さんは、通っていた池田の園芸学校で空襲を知り徒歩で自宅に戻って3日、父母、祖母、姉妹の5人家族全員が遺体で見つかった。親戚の支援で通学を続けて専業農家となり、地域福祉を支えた山岸さんは、「今後の世代には、このような悲劇は誰にも経験させたくない」と何度も語っていた。


◇「悲しみを縁に平和への願い」浄行寺から

 こうした遺族の気持ちを受けて、当時の楠原中住住職が書き起こした碑文の後半は、こう続いている。「今五十年ノ歳月ヲ経テ往事ヲ偲ビ コノ悲シミヲ縁トシテ平和ヘノ願イヲ込メテ 共ニ怨ミナキ安ラギノ道ニ生キヨウ」。

 兄を空襲で失い、26歳で住職を継承した体験が込められた文面だろうが、筆者にとって中住師は、中学2年の時に社会科(歴史)を教えてもらった楠原先生だ。遺族であり、仏教者であるとともに、教育者だった先生が考え抜かれた碑文と思えてくる。

 碑が除幕されてから29年。地元でも空襲の記憶は遠くなっているが、戦争の惨禍を伝えるよすがとして浄行寺を訪れる戦跡巡りや歴史ウォークのグループもある。楠原信海住職は「追悼之碑は、基本的に自由に見学してもらって結構ですが、法要など寺の行事もありますので、グループ見学の方は事前に連絡してくださいと言われている。 =2023年4月22日、5月10日取材 (文・写真 小泉 清)

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浄行寺(豊中市走井1-2-3)は、阪急宝塚線豊中駅か岡町駅から徒歩20分ほど。
 電話 06-6853-0477
  

1945年6月7日 空襲の惨禍伝え続ける=2021.6.13取材

空襲の記憶の絵 公園の説明板に=2022.6.7取材
     
【参考図書】 
大阪教育大附属池田中学郷土研究部「豊中空襲の記録 第1集」
 1976 
能登宏之 「図説 豊中空襲」 2011
    
  いずれも豊中市立図書館などが所蔵。
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