1945年6月7日 空襲の惨禍伝え続ける 大阪府豊中市      

・時期 二軒家公園での2022年の慰霊祭は、6月12日(第2日曜)に開催


・交通
二軒家公園へは阪急宝塚線三国駅から三国大橋を渡り東へ、徒歩10分
  =2021年6月13日取材
    二軒家公園で行われた慰霊祭で合掌する地元住民や有縁の人たち
 
 
 1945年(昭和20年)6月7日の豊中空襲で、豊中市内でも特に大きい犠牲が出た豊南地区。13日、地元の豊南校区自治会連合会が神崎川沿いの二軒家公園内の慰霊碑前で開いた慰霊祭に参列した。

軍需工場狙い猛爆、170人超す犠牲

 神崎川=写真=をはさみ大阪市淀川区に隣接した豊南地区は、戦争当時は豊能郡小曽根村。周囲に農地が広がる中でも、紫電改の部品を製造していた三国航空機材をはじめ工場が立地。対岸で操業していた日本アルミ工業の社宅があった。

 終戦目前の6月7日午前11時過ぎ、B29が1トン爆弾を大量に投下、焼夷弾や機銃掃射の攻撃が続き、170人を超す人が亡くなった。遺体の収容、安置、埋葬も困難を極め、10日になって川と堤防の間の河川敷に溝を掘り遺体を並べて火葬したという。

地元では戦後、この河川敷に木製の塔婆を建てて慰霊祭を行った。しかし、塔婆が増水で流されることも多かったため、住民が話し合いを重ねて1980年(昭和35年)に自治会連合会が石の慰霊碑=写真=を建立。毎年6月第1日曜に慰霊祭を続けてきた。

 コロナ禍で2020年は中止したが、2021年は1週間繰り下げて実施した。自由参加の住民や有縁者20人が午前10時、供花された慰霊碑前に集まり、焼香。簡素ながら、終戦目前にこの地で起きた惨禍に思いを寄せた。

 ◇「命を大切に」小学校に出向き呼びかけ
 
 連合会長の東村高明さん(85)=写真下=は、「続けることを第一に考え、2008年からは地元有志の参加という形で、小規模で行っています。コロナ禍の前までは、地元の豊南小学校に当時の体験を話しに訪ねていました」と語った。

  大阪市福島区で生まれ育った東村さんは、1945年の春に一家で母方の祖母が住む小曽根村に移り、小曽根国民学校第二校舎(現豊南小)に3年生で通った。「大阪市内に比べまだ空襲がましという認識だったのでしょうが、空襲警報も頻繁に出るようになり、5月には今は二軒家公園になっている畑に、近所の人と防空壕を掘りました。素人なので壕といっても子どもの背丈ほどの深さ、物もないので板でへりを覆うくらいでした」。
 
 そして6月7日。「空襲警報で急いで入りましたが、『この上に爆弾が落ちたらおしまいや』と恐怖心がつのりました。爆風による振動がすごくて、離れた場所でも1トン爆弾が落ちると壕がミシミシ揺れ、生きた心地がしませんでした」。家族は無事だったが、東村さんは仲の良い級友を何人も失った。焼き場の河川敷に運ばれていく無残な遺体も目にした。

 「何の罪もない子どもまでが、戦争で爆弾や焼夷弾を落とされて殺されることは人間として一番悲しい」と語る東村さん。戦争はなくても子どもたちが事件や事故で命が失われている今の日本に心をいため、「親からもらった命を大切にしてほしい」と呼びかけている。

 連合会は15自治会で構成、毎月1回は会合を持って地域活動を進めている。1週間前の6日朝に訪ねた時も、地元自治会の役員さんら10人ほどが公園掃除に集まっていた。「今年の慰霊祭は13日なんです。ぜひお越しを」と丁寧に教えてもらった。日頃から地域活動を連携して行っているので、戦後76年の今も慰霊祭が続いているのだろう。

 ◇業態変わっても従業員と勤労学徒の慰霊ずっと

  午後からは市民グループ「豊中に平和と人権の資料館を求める会」の戦跡ウォークに加わり、三国金属工業(旧三国航空機材)=写真右=を訪問。日曜だったが総務課長の藪下昌二さんに出ていただき、空襲で命を落とした従業員40人と勤労学徒の慰霊のため1957年に建てた碑=写真下=を見せてもらった。勤労学徒関係は豊中中学の学徒8人と引率教員1人、金蘭高女の生徒5人。豊中中の後輩としては忘れられない場所だ。

 学校側の記録では、豊中中からは80人が勤労動員。4月までは大阪市内の製薬会社で働いていたが、多くの学徒が目の痛みを訴えたため、大阪府が勤務先の変更を了承。三国航空機材が候補にあがると「敵機を撃ち落とす新鋭機が作れる」と学徒も歓迎し、すぐ決まったという。

 亡くなった8人は中学20期生。3月にすでに卒業していたが、国の指示により中学の指揮下で動員が続いていた。その一人、北之坊修治さんは早稲田大学高等学院に入学しながら早稲田の制服、制帽を着て参加。遺体の横には焼けただれたマーク入りボタンが転がっていたという。

 同社は辻ブリキ印刷所として創業、大戦が進むとともに軍の要請で軍需工場とされ、1944年に三国航空機材と社名変更した。戦後は三国金属工業としてiいち早く再出発、湯たんぽも製造したそうだ。今はスチール缶製造が主な事業で、塗料容器にも使われている。藪下さんは「時代は変わっても、6月7日にこの碑の前で行う慰霊祭は続けていきます」と話していた。

 戦後の歳月の経過で、せっかく建てられた空襲慰霊碑が失われたり、忘れ去られたりしてきている。いろんな事情によるだろうが、それでも碑を守り、空襲の惨禍を伝え続けている人々の志の高さを感じた。
(文・写真  小泉 清)


 
勤労動員の先輩捜しに惨禍の工場へ =2022.4.23取材 

 【参考図書】 
 大阪教育大附属池田中学郷土研究部 「豊中空襲の記録 第1集 」
 1976 
 大阪教育大附属池田中学郷土研究部 「豊中空襲の記録 第2集 1977
 憶念の詩編集委 「憶念の詩 大阪府立豊中中学戦争体験の記録」 1983
    
       いずれも豊中市立図書館などが所蔵。
                  
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