社会教育者・下村湖人の足跡たどる生家 佐賀県神埼市       

 
   「下村湖人生家」(佐賀県神埼市千代田町)を7年ぶりに訪ねた。「次郎物語」の作者だけでなく、「青年の父」と称えられる田澤義鋪に続いて地域での勤労青壮年への社会教育活動に取り組んできた湖人の足跡を、貴重な資料でたどれる。

  
戦時体制下も地域の勤労青壮年の中に 

  湖人は1931年(昭和6年)、47歳で台北高校長を辞職し上京、田澤が理事長を務めていた大日本連合青年団嘱託となった。翌年には社会教育研修生の指導主任、翌々からは講習所長として全国から集まった青年と50日間生活をともにした。

 講習所の浴恩館は今も小金井市文化財センターの建物として使われているが、湖人が自宅を離れて寝泊まりした空林荘は2013年に焼失。「生家」には、湖人が活動した当時の姿を伝える写真が展示されている。

 湖人が担当した4〜19期の講習終了時に受講生が書いた寄せ書きも見られる。湖人は各講習ごとに天、光、生、思無邪(思いよこしまなし)など短い言葉を選んで中心に書き、名前を添えている。湖人が最初に受け持った第4回講習会の寄せ書き=写真=では、「全一」と書かれ、左側には田澤義鋪の名も書かれている。「講習生は全国から集まり、講習を終えるとさよならでなく、戦中戦後に湖人が各地を回る時、生家を復元する寄金でも元講習生が力を尽くしたのです」と島英彰館長は、つながりの深さ、長さを指摘する。

 講習所の講師陣の色紙を見ると、湖人の佐賀中学以来の親友で経済学者の高田保馬、日本近代登山の先駆者・槙有恒、満蒙開拓団の主導者・加藤完治ら多彩な人材を招いている。

 在任4年で「自由主義的」と批判を浴びて講習所長を辞任した湖人は、田澤の壮年団運動と連動して大戦中も全国を回る。しかし、1944年11月に急逝した田澤を見送って1945年になると、東京・新宿の湖人宅も空襲にさらされることになる。

  ◇戦局の動向つかんでいた防空壕での日記

 空襲下の日記「窖(あなぐら)の記」が防空壕でつづられた手帳を、2020年夏に湖人の三男・下村徹さんが「生家」に寄贈。同館で所蔵する湖人の原稿の筆跡と照合し、直筆の原本と確定した。島さんのご厚意で中を開いて見せてもらった。「窖で死んでも それが無計画の計画である」と「次郎物語」の名言「無計画の計画」も書かれている。

 私が注目したのは「4・30 沖縄、時の問題という説あり。ドイツついに降伏」「5・2 ムソリーニ処刑の報あり」「5・3 ヒットラー戦死の報あり。感無量」=写真、「6・19 ソ連の動向心配さる」など内外の情勢を早く正確にキャッチしていること。「元内務大臣の後藤文夫ら政官界の中枢に知り合いが多く、情報を早く得られたのではないか」と島さんはみている。

 ヒトラー、ムソリーニが礼賛される戦時下でも、湖人は「イタリーやドイツを中心とする全体主義の主張」の弊害を訴え続けていた。両独裁者の末路には大きな関心を寄せていたのだろう。

◇零落しても水門建設に感謝、旧堤防の上に父の家

 7年前には正木老人の家、遊び場の冠者神社など「次郎ゆかりのスポット」を自転車で連れて回ってもらったが、今回は新たに確認された湖人ゆかりの地を案内してもらった。湖人の父・内田郁二が家を完全に売り払って1902年に熊本市で酒屋を開いたものの1年で失敗、村に戻って来たおりに黒津の集落の人たちが家を建てて迎え入れ、1913年に亡くなるまで住んだ場所だ。

  島さんらが2017年にこの家の場所の確認調査を行い、地元の人々の聴き取りから場所が特定できた。家は戦後建て替えられ、新しい家族が住んでいる。

 このあたりは筑後川流域の人と水との苦闘の跡を鮮明に伝えている。まず郁二が黒津に迎えられたのは、この集落を通って筑後川に合流する田手川の氾濫を防ぐ黒津水門の建設に貢献した恩義を人々が忘れなかったからだ。

 この時の水門はすでになくなり、新しい水門に替わっているが、島さんは郁二の家の立地=写真=に着目する。「この家は旧堤塘(堤防)上の土地に建てられているんです」。たしかに、筑後川に向かう南東側に比べると1mほど高くなっている。「江戸時代、筑後川が蛇行して流れていた時は、川の氾濫をあらかじめ想定して、広い遊水地をとるため堤防をあえて川から距離を置いた場所に築いていました。明治20年から始まった筑後川改修工事に合わせて川沿いに堤防を築くようになったので、かつての堤塘は跡をとどめるだけになりましたが、水につかりにくい適地として家が建てられたのです」。

  近辺を歩いて、上に笹が生い茂った、よりわかりやすい堤塘跡=写真=も教えてもらった。「途中途切れているが、郁二の家が建った堤塘の続きと見られます。根が張って堤塘が強くなるので、堤塘には竹を植えることが普通て、その笹が今も繁っていて昔堤塘だった場所を教えてくれるんです」。

◇むらづくりに取り組む「もう一人の次郎」像

 ここ黒津は、湖人が1939年に書き、大戦中の1943年に発表した「若き建設者」のモチーフになっているという。帰阪後に湖人全集で読むと、「主人公・簡次が中学から高校に進まず代用教員になり、この黒島で農業青年とむらづくりに取り組む」「妹のお澄は女学校を辞めて農業を始める」とかなり飛躍した展開だ。学校教育から社会教育にシフトする時期の湖人の気持ちが反映しているのだろうか。
 
 湖人は戦争末期の次郎を描く第6部、戦後数年たった次郎を取り上げる第7部を書き続ける構想を持っていた。7部ではおそらく新たな舞台で地域づくりに取り組んだであろう次郎。その中に、簡次が投影されたかもしれない。

 「次郎物語」では、零落した俊亮が佐賀市を思わせる町で酒屋を始めたが失敗、村に戻って後妻お芳の実家近くで空いた農家を借り、村長の就任要請は断って養鶏を始めるというストーリーなので、だいぶ違う。

 それでも、黒津の人々から「漁業を巡るけんか出入り等で外交交渉がうまかった」「人を動かして解決し、佐賀あたりでもきけていた(能力があった)」と評されていた郁二。面倒見がよく、ならず者も仲裁し、商売はだめだが、周囲の人々に信望される俊亮の像と重なる。

 黄金の穂が実る稲田が広がる佐賀平野。俊亮=郁二をはじめ、筑後川水系の水の恵みと怖ろしさに向き合ってきた流域の人々の歩みを思いながら、「次郎の里」を後にした。

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 下村湖人生家(0952・44・5167) 月曜休館・無料
 周辺を回る時は佐賀駅周辺のレンタサイクル利用が便利で快適

(文・写真 小泉 清)

【参考図書】「下村湖人生誕134年記念 白鳥入蘆花」2018 下村湖人生家保存会
        「下村湖人生誕120年記念 大いなる道」2004 下村湖人生家保存会 講習会寄せ書き所収
        「下村湖人全集3 次郎物語第五部/若き建設者」1975 国土社

                                                     



   
  「次郎物語」とクリークの風景  2014.9.3取材
     

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