「次郎物語」とクリークの風景   佐賀県神埼市        

   
                
  
 
      ヒシの葉が広がるクリーク。昔、製蝋に植えられたハゼが水辺に見られる  
  ・時期  ヒシ、ヒツジグサ、ハスの花は7~9月。サギは8月に多い
     2014年10月3日に下村湖人生誕130年祭

・交通案内  
下村湖人生家(神埼市千代田町﨑村895-1)へは、車なら佐賀市駅から20分、久留米駅から30分。JR神埼駅前から神埼市巡回バスで下村湖人生家前(日・祝日運休)。
佐賀駅南口の佐賀市観光案内所のレンタサイクルを利用すると、周辺の周遊には便利

電話 下村湖人生家(0952・44・5167)。説明を希望する場合は事前連絡
                       
                 =2014年9月3日取材=
        
  戦前の農村を主舞台に少年の心の成長の軌跡を描き、70年以上、子供から大人まで読み継がれてきた「次郎物語」。佐賀平野の一角には作者の下村湖人の生家が残されている。クリークに広がるヒシやハス、ヒツジグサなどの水草、森や青田から飛び立つ白鷺などを見ながら、湖人の経験を映した物語にまつわる場所を自転車で回ると、次郎の声が甦ってくるような気がした。

   成長支えた人々の面影 佐賀平野の水辺に甦る 

  佐賀駅前から自転車で東へ向かう。しばらくは新興住宅や大型店舗などが続くが、佐賀市から神埼市千代田町へと入ると広い田園が広がってくる。上り下りがないのでペダルをこぐのには楽だが、それでも1時間近く10キロ走り「もう着いても」と思い始めたころ、生家のある﨑村の集落が見えてきた。

 生家は集落の中でも異彩を放つ立派なつくりだ。それもそのはず、明治初め、佐賀・鍋島藩の支藩・蓮池藩(5万石)の勘定方だった湖人の祖父が藩邸の一部の払い下げを受けて建て直した建物という。兄弟3人の2階勉強部屋に上がる階段は1m以上の幅がある頑丈なもの。家は湖人の父・内田郁二が物語の俊亮の通り、財産を失って佐賀市に出た明治32年に谷口家に売られる。「谷口家は製蝋業をしていたので土間のあたりは手を入れていますが、それ以外はほとんど変えておらず、復元もしやすかったのです」と館長の島英彰さん(60)に説明してもらった。

 この家も老朽化で取り壊しの危機に瀕したが、昭和45年に「下村湖人生家保存会」が買い入れ、旧千代田町が修築して公開を始めた。次郎=幼い湖人(本名・内田虎六郎)の育った居住空間を目に出来るのは、多くの人の思いと尽力があってのことなのだろう。

  ◇愛も憎しみも…思い浮かべる物語の舞台

 次郎が母・お民のお説教を聞いた座敷や茶の間、分け隔てする本田のおばあさんをひっくり返した仏間、零落した俊亮がおばあさんに隠れて売立ての刀を出していた2階座敷…と、物語の舞台がそのまま残っている。各部屋には三兄弟や父の写真、湖人直筆の原稿や手紙も展示され、次郎物語の世界に浸れるとともに、作者やモデルとなった人々の実像とのつながりをたどることができる。

 続いて島さんに、生家周辺のゆかりの地を自転車で案内してもらった。まず門を出て右手に入った道が「次郎の通学路」。小学校は、次郎が里子として乳母のお浜一家と暮らした神代尋常小学校だ。真夏の夜、学校の交番室から生家へ母のお民に連れ戻されるのが「第一部」の名場面。そこには駄菓子屋、豆腐屋、散髪屋などの店が続く情景が描かれているが、今は店は一軒もない。菜種油を搾る家はもちろんない。

 墓地で戦争ごっこをする西福寺に寄って進むと、青田の脇に「神代小学校之跡」の石柱が建てられ、保存会の説明板が横にある。他のポイントもそうだが、場所ごとの物語の記述が引用されているので、その場面を思い浮かべることができる。実際歩くと、この「通学路」は意外に短い。物語の「連れ戻し」の場面を読むと、次郎にとって交番室と生家の心理的距離感を意識するのか、すごく長い距離のように感じるのだが…。

 途中のクリークに、今はガードレールのついた小橋がかかっている。島さんが古老に確かめたところでは、昔は土橋だったという。次郎が上級生二人にいじめられていた兄の恭一を助けようと立ち向かい、三人もろとも水面に落ちた「土橋」は、ここと同定したそうだ。

 物語にあるように、この神代小学校は老朽化のため取り壊され、次郎は東へ400mの千歳小学校に通うことになる。ほどなく、本田の祖父が亡くなり、本田家の零落で父が家も家宝も売り払って街に移ることなどから次郎は、母の実家の正木家に預けられる。圃場整備で道が変わったからかもしれないが、千歳小から正木家までの道は随分長く感じた。本田家からは東に2キロ。次郎が本田から正木に暮れに一人でお使いに行く場面があるが、確かに1年生にとっては大冒険だっただろう。

 ◇「あれが北極星…」 筑後川の水門に残る正木老人の人徳

 正木の家のある出屋敷の集落でまず目に入るのは立派な甍の西蓮寺で、門前に明治28年に建てられた顕彰碑が残っている。正木のおじいさんのモデルになった湖人の母方の祖父・牧源一翁が、度々襲う洪水から地域の人を守ろうと私財をなげうって筑後川北岸に千歳樋門を設けた事蹟を称えた碑だ。槍師範をしていた牧源一は廃藩後に製蝋業を始めて繁盛、地域の信望も篤かった。「次郎物語」の中でも、次郎を正木家に連れて行く夜道でおじいさんが道の曲がり角で立ち止まって「次郎、あれが北極星じゃ。・・・あれだけはいつも動かないからの」と言う場面が思い浮かぶ。

  しかし、西蓮寺からすぐの「正木家跡」は礎石と煉瓦塀の一部を留めるばかりで、次郎物語で描かれるような築山や池のある屋敷、広い製造場などは想像するしかない。牧家は次の代で酒造業に転換したが失敗し、一家挙げてむらを出て行かざるを得なかったという。牧家(正木家)にせよ、内田家(本田家)にせよ、明治維新を乗り切った名家であっても、その後の時代の変動を通り抜けることは難しかったようだ。

  集落を南へ抜けると筑後川。次郎が俊亮から水泳の特訓を受けた大川だ。河口から5キロくらいだが、海水と淡水の混じりあった汽水域でスズキなどの海の魚も捕れるという。堤を西へ進むと、先の千歳水門に出る。昼前の中潮の時間だったが、干満差6mで、満潮の時間には逆流してくる。今の水門は戦後建設されたものだが、明治時代に先鞭をつけた牧源一の功績は伝えられていくだろう。

 最後に次郎の友人「竜一の家」に寄って生家に戻った。肺病にかかり実家の正木家に戻ってきたお民の薬を次郎が取りに行く青木医院で、その次郎に薬を調合しながら優しく接する竜一の姉・春子の姿が印象的だった。医院のモデルとなった兵働医院がここにあったが、一族は関西や福岡市に移り10年前に取り壊されてしまって、クスノキの木が残るだけなのは少し寂しい。

 ◇環濠集落跡の森に白鷺、水面に広がるヒシ

 午後からは、少し遠く、サギがまとまって生息する森に連れて行ってもらった。﨑村の集落の外れにある次郎たちの遊び場・冠者神社=クリックで写真=で関西では見られない肥前狛犬と対面したあと、筑後川から取水した導水を流す農業用水路に沿って北へ進む。青田のほか、減反政策で県が推奨している大豆の畑が一面に広がっている。その中に小島のように浮かぶ森があった。田園の中になぜこ森が残ったのかと不思議に思って近づくと、クリークに囲まれた中世の「環壕集落跡」。木の上に5、6羽の白いサギが停まっていた。人の動きがすぐわかるのか急いで歩いたり、話したりするとすぐに飛び立ってしまうので、そーつと近づいた。

 島さんの話では、シラサギでもダイサギ、チュウサギ、コサギの3種がいるが、今日見られたのはコサギ。真夏にはもっと多く集まっていたが、秋が近づくと南方へ移動していくという。ゴイサギやアオサギも見られたが、佐賀の青田が広がる風景では白鷺が一番似合うように思えた。中学生になった次郎が薫陶を受ける朝倉先生の「白鳥 蘆花に入る」の精神。湖人は禅の「碧巌録」の「白馬蘆花に入る」を元にしながら、佐賀平野を飛ぶ白鷺の姿をイメージして新しい意味に発展させたという。

 環濠集落をはじめクリークの水面は、水草が繁茂する場となっている。水面を埋めるヒシの葉のわきで白い小さな花がひっそりと咲いている。引き揚げてみるとヒシの実が育ってきていた。9月半ばを過ぎると三角錐の実がなり、上直鳥集落を中心にハンギーと呼ばれる大きなたらいに乗った農家の女性が早朝にヒシを採る風景が見られるそうだ。殻ごと茹でると栗のような味がし、次郎物語でも、この地を去る本田一家が正木家でヒシの実をかじる場面が出てくるが、今も小学校の給食で出されるふるさとの味だ。夏が終わって数は減っているが薄紅色のハスの花が開き、ヒツジグサの涼しげな白い花も見られた。

 ◇変わる情景、水質改善で戻る生物も

 次郎物語に描かれた情景の多くは消えている。蝋の原料として堤に並んで植えられて、秋に紅葉を見せていたハゼの木は蝋づくりの衰退と河川改修で切られた。晩秋から初冬にかけてクリークの水を抜く「こいあげ」(堀干し)は栄養分のある泥を肥料として田畑にも戻すとともに、コイやナマズを獲る重要な行事だったが、昭和40年頃に途絶えた。「淡水魚が敬遠されたうえ、コメの単位収量日本一を誇っていた時代には農薬を多く使って安全性に懸念があったことからクリークの魚を食ベなくなりました。化学肥料の普及で泥を苦労して肥やしに使うこともなくなりました」。

 近隣の集落で生まれ育った島さんは小中学生のころ、次郎が得意だった「針かけ」(天竺針)は熱中していた。「夕方に工夫してかけた針にウナギがかかっているか、わくわくして朝5時に見に行っていました」。この「針かけ」も弟の世代になると、餌のドジョウが取れなくなり、遊びの関心も変わって途切れた。

 しかし、クリークの風景は滅びはせず、甦えっているところもある。「今では農薬を最小限にしか使わないので、水田やクリークに生物が再び棲み、サギもよく飛んでくるようになりました。地元の一斉清掃で水質も以前より良くなっています。ブラックバスが増えたため、タナゴやヨシノボリなど昔からの淡水魚はまだまだですが、テナガエビは戻ってきています」。そういえば、車道沿いの水路や川でも、空き缶のポイ捨ては見られなかった。かつては飲用にも使ったクリークをはじめ、水はおろそかにしてはいけないという心が、当たり前のこととして保たれているのだろう

 ◇「今の時代こそ読んでほしい作品」

  今年3月末で小学校の校長を退職して館長になった島さんが「次郎物語」を読んだのは、大学生になってからだった。教師になり校長になる中で、著作に盛られた湖人の考え方に惹かれ、自然と湖人のことばを児童や先生との話の中で活かせるようになった。神埼市では小学校に入学した時に「次郎物語第一部」を全児童に配布しており、地元の小学校の校長の時は「次郎かるた」作成に取り組んだ。児童が各章の内容から字札を考え、絵札を描く「考える力」も育てる学習だ。

 館の入館者は、加藤剛が俊亮を演じた映画が上演された昭和63年にはピークの年間1万2千人に達したが、最近は年3500人程度となっている。教科書への掲載が減っているのが要因かもしれないが、「現代にそぐわない」と敬遠する向きがないだろうか。「教訓めいた話ではなく、いろいろな人の助けによって受身の人間から自分が主体的に動いていく人間へと成長していく記録です。人と人とがどうつながっていくのか、困難な時にも誰かが支えになっていることを自然と考えていくのではないでしょうか。いじめによって自ら命を絶つ子供が少なくない今の時代こそ読んで欲しい作品です」と島さんは話す。

 私自身は50年前の小学5~6年生の時、担任の先生が読んでくれたのが始まり。今度改めて読み直してみても飽きることはない。次郎の視線で読んでいた作品を俊亮、正木老人らの位置で読むこともできる。湖人の生家を訪れて、「次郎物語」の古里をめぐったことで、次郎が、この広い佐賀平野の自然の中を駆け回る中で成長していった姿が感じ取れたような気がした。     
       
(文・写真  小泉 清)  

独り立ちしていく子供に」 願い込め「次郎」読み聞かせ  2014.11.30更新
                        

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