「独り立ちしていく子供に」 願い込め「次郎」読み聞かせ                                   
  「次郎物語」の古里を訪ねてから2か月後、大阪府豊中市の小学校の6年4組で読み聞かせしてもらった榎原正宣先生を訪ねた。昭和39年(1964)10月には東京五輪が開かれ、日本全体が高度成長の波に乗っていた時代。当時30歳だった先生がどういう思いで「次郎物語」の読み聞かせしたのか聞きたくなったからだ。

 「子供一人ひとりが自立して生きていける力を育てたい。そのために、まず本を読める子にしてやりたい」。教育を志した学生時代からの思いが、読み聞かせの出発点。高度経済成長前で貧しく、本を買って読めない家が多い時代だった。昭和32年(1959)年から5〜6年生を中心に担任を持った14年間は、給食時間中に机の間をまわりながら読んだ。その中でも「次郎物語」は必ず取り上げた。「子供の成長の描き方がすごいと自分自身が引き込まれた。家が没落する中で次郎がどう感じたか、独り立ちしていくたくましさを読み取り、自分の生き方を考えてほしい。そして、本を読み返す中で、独り立ちしていく子供になってほしいという願いだった」。

 「本田家の没落」の章で、家に伝わる刀の売り立てを寂しく思う次郎。父の俊亮が「本当の宝は『ひきょうものにならない』という本田のうちの精神。売り買いのできるようなものは、なくなってもたいしたことはない」と教えるくだりが思い浮かぶ。

  ◇子供どうしが助けあって向上 「ヴィーチャ」で気づく

 ソ連のノーソフの作品「ヴィーチャと学校友だち」(1951年)も読み聞かせしてもらった。ソ連の4年生ヴィーチャの1学年を、学級や家庭での人間模様の中で生き生きと描いた作品。ヴィーチャがオリーガ・ニコラーエブナ先生や家族の後押しで苦手な算数を克服し、次に国語ができず学校もさぼる友人・シーシキンをできるように助力する。「子供どうしが助けあって、できない子もしっかり支えていく。そして自分でやろうとするとできるんだということに気づかせてやれればという気持ちで読み、話が面白いと子供にうけた」と想い返されていた。

 ソ連崩壊とともにソ連の児童文学は顧みられなくなり、この本も絶版状態だが、今読み返してもいい作品と思う。ピオネールなど共産主義体制下ならではの表現はあるが、「本当の友だちとは…」といったテーマは普遍的なものだ。当時は、1962年の「ガガーリン宇宙飛行」に続く時代で、子供にもソ連が明るく見えていた。大学でマカレンコらのソビエト教育学を学んだ先生は、近くの吹田市の農家で生まれ育った「土着の民」に立ち戻って教育観を考えながら「こんな子に育ってほしい」という思いを強めたという。そうした思いの中では、次郎もヴィーチャも違う世界の子供ではなかっただろう。

 このほか有島武郎の「一房の葡萄」も読まれたし、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は全文暗唱だった。体力づくりでは、授業前の3階建校舎屋上までの階段40往復や運動場10周、放課後の学校(阪急岡町駅付近)と曽根駅往復マラソンは忘れられない。東京五輪前後の高揚感や友だちどうしの競争意識があってか、いやいやさせられたという記憶はない。
 

                              ◇

 先生はその後、市教委指導主事や校長を務め、担任は私たちを含め2年持ち上がりの7クラスだけだった。しかし、校長になってからも「読み聞かせは無理だったが、全児童の担任という気持ちで朝会で子供たちに呼びかけ、『目安箱』に入る児童からの手紙に答えた」。午後3時になると子供の姿がいない校庭を見て、自分で大工仕事や熔接をしてグラウンドに跳び箱や大型ブランコなどの運動遊具を置いた。それで子供たちが5時まで駆け回るようになって、遊びながら体力がついたそうだ。

 東京五輪を機に結成されたスポーツ少年団の指導を昨年まで続けてきた先生は80歳、現在も毎週研究会に出て現役の教師に助言している。どういう場所やポストにあっても、親と学校の関係など時代の環境が変わっても、自立して生きる子供を育てようと、一人ひとりと真正面から向き合う姿勢で貫かれてきたのだろう。50年前の小学校に戻れば、校内相撲大会を前に、がっぷり組んでけいこをつけてもらった時の力強い感触は覚えている。「次郎物語」の読み聞かせもその取り組みの一つだったから、今もしっかりと響いてくるのだろう。

                                 (文・写真 小泉 清)=2014年11月30日更新

                                    本文のページへ戻る