青春のすべてぶつけた回天の10か月ー松場公平さんの「遠い思い出」から
 
 
                           
   
 終戦直前、和歌山県由良町白崎の回天基地で出撃を待っていた松場公平さん。2002年にその時の思い出をお聞きし、改めてそこに至るまでの志願の動機や訓練の様子をうかがいたいと思っていたが、2010年に83歳で逝去され、果たせないままとなりました。

 2015年に長男の啓人さんから、松場さんがワープロで打ち込んでいた「遠い思い出」の文章を送っていただきました。予科練への志願から回天への搭乗、戦後の復員までの経過と思いを生き生きと精確に描かれていることから、抜粋して掲載させていただきます。


  ◇中学から予科練、そして特殊兵器搭乗員に
 

  昭和18年4月、我々は旧制中学5年生となった。世相も戦時色一色で何か追い詰められているような、またなぜか若者の血潮がほとばしるような時代だった。
 我々は多少の不便を感じながら最上級生として中学生活を楽しんでいたが、一学期を終了したころには戦争は益々激しくなった。「健康体の者は速やかに軍隊関係に進学か志願せよ」という風潮が校内に高まり、予科練=海軍甲種飛行予科練習生=を受験することに至った。

 試験は宇治山田中学校で実施。クラスの12、3名と1クラス下の若干名と受験に向かった。試験は身体検査と国語、数学、世界地理の三科目。10日程して二次試験の通知があった。飛行機搭乗員としての適性を調べる試験で、岩国航空隊で実施。旅費は市町村負担だった。
 学校に戻って数日後、腹痛を起こして急性盲腸と診断された。その手術の当日に合格通知があり、「12月1日に三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊せよ」とのこと。退院5日後に市、町、村の方々、親戚、級友の歓呼の声に送られて尾鷲駅から列車に乗り込んだ。

 厳冬の中、教育・訓練の厳しさは増し、鉄拳・バッター制裁は日常茶飯事だったが、毎日やられているうちに、うまくタイミングをとる要領を会得した。昭和19年3月には基礎教育が終わり、7月には帰省休暇が許された。純白の七つボタンの制服に身を固めて帰省。教班長から「隊内での鉄拳制裁は他言無用。後輩諸兄に『予科練は素晴らしいところだ。志ある者はこぞって予科練を志願して、我々に続き大空を目指し天下国家の為に尽くせ』と、大いに宣伝してこい」と言われていたが、下級生には「無理してまで予科練なんかにしがんしなくていいよ」と言って置いた。

 隊に戻ってからは、一日も早く大空に巣立つ日をめざして真剣に訓練に励んだ。すっかり軍隊生活に慣れた8月中旬に突如、運命の日がやってきた。
 「総員、日課課業を止め、本部講堂に集合せよ」との命令。「いったい何が始まるんだろう」とささやき合っていると、三重航空隊奈良分遣隊長・垣田司令から「戦局は一層緊迫の度を増し、国家存亡の危機である。今ここに貴様達に重大な任務を伝達する。我が海軍は現在の戦局に対応出来る特殊兵器を開発した。この兵器を使用して国家防衛の責務を全うせんとするものである。しかしこの兵券の搭乗員は貴様連の様な基礎教育を終えしかも元気溌剌、攻撃精神旺盛な者でなくてはならない。この特殊兵器要員参加については、諸子の国を想う情熱に期待するところ大である。但し、この特殊兵器の搭乗員に参加した者は、元より生命は保障し難い、早くて3ケ月、遅くても6ケ月で、その責務を全う出来るであろう。しかしこの件については、決して強要するものではない。自己の意志によって、熟慮の上、決断されたい」とそれだけ言って壇上を去る。

   ◇「じっくり考えて決断を」つぶやいた分隊長

 替わって各分隊長は、それぞれの分隊員に細長い用紙を配布する。分隊長は「用紙に官職氏名を書き、特殊兵器要員を熱望する者は二重丸、希望する者は一重丸、どちちらでも良い者は、何も書く必要がない。時間は5分間、同僚との相談、私静は絶対に厳禁。なお、このことは上司といえども他言無用。かかれ」我々の生死の運命を決する重大な5分間である。

 分隊長は、我々の周囲を歩きながら、「お前達は、飛行機の搭乗員になるべく、故郷を出て来たのだろう。じっくり考えて決断せよ」とブツブツつぶやいてくれた。「一時の感情で早まるな」とは、決して言葉に出して、言えなかったのだろう。

 当時の分隊長は、年配の海軍大尉で、恐らく、花のつぼみにしては若すぎる我々を、余り早く散らせたくなかったのだろう。たとえ十か月程の短い期間でも、息子か子供のように手塩に掛けて育てた俺達だ。小声でブツブツ言いながら、周りを歩いてくれた分隊長の心情は、この歳になって初めて実感として脳裏に浮かんでる。

 分隊に帰っても誰も「俺は二重丸だ、一重丸だ」とは誰も云わない、暗い変な雰囲気だった。俺は全員二重丸を書いたと信じたし、今でも、そうであったと思っている。

 何も「国家の為、命を投げ出して、悠久の大義に生きよう」という崇高な気持ちは、なかった様な気がするが、しかし、国家の為にという気持ちも有ったのかも知らない。唯、どうせ散るなら、こんな厳しい練習航空隊より、他へ行った方がましだと、一瞬頭をかすめた事も事実だ 。しかし俺も迷わず、即座に二重丸を書いた次第。

 その翌日から、各班から2、3名程づつ、士官室に呼び出されて、家庭の状況、家族構成等を聴かれ、直ぐ身体検査をやらされた。それぞれ検討の結果、各分隊から我々若干名が選抜され、予科練習生の教程を繰り上げ卒業して、目的地に転隊する事になったのである。

   ◇窓閉め切った夜の軍用列車で呉へ  

 昭和19年8月28日卒業式、30日18時退隊との事で急いで移動の準備をする 。その間各分隊、各班毎の記念写真の撮影等が行なわれた。 どこへ連れられて行くのか判らない、まして家族との面会はおろか、どこへも連絡の仕様がない。隣の分隊の岡本兄を呼び出してしばし別れの雑談を交わす。

 「俺の出発の経緯、様子は後日お前から、故郷に知らせてくれ」これだけ頼んだ。
「そうか、ついにお前も先に行くか。しっかりやれよ」と一言。長年、行を共にしてきた、親友であり、悪友であった岡本が、あの童顔で、横着様な両眼を潤ませながら、俺の手をしっかり握った事が、強烈に印象に残る。

 その夜20時頃、丹波市駅(奈良県天理市)の軍用列車に乗り込む。当時は機密保持の為に隠密行動を必要とされ、汽車の窓は全部閉められて、行き先も方向も判らず、不安のまま10時間汽車に揺られ、翌朝6時頃やっと目的地に着いた。

 何と、着いた所は呉駅である。早速引率されて、呉軍港内の或る広場に集められた。呉軍港広場には奈良分遣隊から650名来たのであるが、ここで我々250名は回天要員として基地に残り、他の連中は特潜要員として、大竹の潜水学校や他の基地に移動したらしい。
それから潜水艦の基地隊に引率され、そこに1週間程滞在した 。

 潜水艦基地隊には半日程前、土浦空からも100名が回天要員として着任していた。これから終戦まで、土空出身の彼らと行動を共にするのだが、どこか行動がキビキビとしていて 「さすが予科練伝統の土浦航空隊出身者、どこか違うわい」と感じた


  ◇回天搭乗員として死を賭した訓練

 暫くして俺達は、とんでもない所へ連れられた。呉潜水艦基地隊で一週間ほど休養後、あの真珠湾攻撃で有名な特殊潜行艇の訓練基地P基地、(一特基の本部)倉橋島の隣の大迫港のQ基地であった。

 Q基地は水陸両用戦車隊の訓練基地跡で、残務の任官、下士官兵の方が、多少残って居られた。そこで、二ヵ月程、飛行機ならぬ九三式酸素魚雷の勉強、カッター訓練、手旗信号の再教育等を、みっちりやらされた。

 そんなある日、昭和19年11月初め、情島沖の海面で、回天の走行実験が行なわれるとのことで内火艇に分乗して見学に行った。その時は、あれが我々が乗る人間魚雷回天か、武者震いというか、恐怖心からか、背筋がゾーとして冷汗が流れた事が今でも、はっきり覚えている。

 そのQ基地で、初めて帝国海軍の軍人としての、本当の教育を受けた感じだった。予科練当時と違い、教官は、全て海兵、海機出のバリバリの士官で回天搭乗員としての死を賭した、教育訓練が始まったのである。

 また、このQ基地では意外な面々とお会いするのである。それは我々の中学時代の4年先輩の、塩津礼次郎さんとの出会いであった。先輩は早稲田大学卒業、予備学生として入隊、予備少尉で、回天搭乗員として基地に着任して来たのである。それ以来、塩津さんとは、光基地、大津島基地と、ずっと一緒で、随分お世話になった。

 昭和19年11月1日、 「海軍二等飛行兵曹二任ズ」呉鎮守府からの発令。下士官に任官し、また判任官になったのである。これまで憧れて着用して居た七つボタンの軍服ともお別れとなった。軍服は新品がないので、どこかの衣料倉庫から集められたのか、中古の一種軍装が支給された。軍帽の記章も錨に抱き茗荷が付き、これで俺達も一人前かと心を踊らすと共に、これからの責任の重大さに身震いした。

 忙中閑在りというのか、任官後我々にも半舷上陸が出る様になった。Q基地では、九三式魚雷に関する、徹底した知識と、体力の訓練、精神的教育等々学ぶ事が多々あったが、思い出すのは18才の我々が大手を振って遊廓遊びをした事だ。海軍とは、時には粋な計らいをする所である。どうせ奴等は後半年で、この世とおさらばだ、今のうちに女の味も経験させて置け、との思いやりもあったのだろう。

 Q基地では、死を覚悟したとは言うものの、結構のんびりした1か月で、練習生とは違って酒保物品も沢山支給されていた。丁度その日は、隊内で演芸会が開催されて、俺の班が優勝して、賞品に、虎屋の羊羹が沢山支給された。

 その晩、突然級友の浜田寅雄兄が、基地移動の途中でQ基地に寄りー泊した。早速賞品の虎屋の羊羹を分かち合って、しばし近況を語り合った。

 「俺は回天だ。近い内に前線基地、大津島に行くらしい」「俺は、絞龍(特殊潜航艇の改良型)だ。他の連中は、どこへ行ったのだろうなぁ?」。「もう、今度は二度と会えないだろう。それまで(死ぬまで)お互い頑張ってやろう」等々、僅かな時間を、惜しみながら、夜遅くまで語り合い、手をしっかり握り合って二人で目に涙を滲ませながら、決別した時の様子が、昨日の様に思い出される。

 昭和19年11月12日、我々もQ基地を後に、回天隊の新らしい訓練基地、光基地に移動し、開隊の準備にたずさわった。この時は既に土空の100名は最前線訓練基地大津島に移動していた。そろそろ何名かは、搭乗訓練を始めていただろう。

 そして2月25日、光基地隊が、開隊、分隊の編成、基地宿舎の配置も終わり、ちょっと、落ち着いた頃、宝塚航空隊から、長崎の川棚魚雷艇基地に送られていた同期の連中数十名が、二次搭乗員として移動して来た。
 その連中の中に、1ケ月程前にQ基地で、束の間の再会を喜び、名残を惜しんで別れた浜田史郎兄の名前を名簿で発見、早速彼を尋ねて再会した。2、3日して、二人でゆっくり再会を喜び、そして終局の目的に邁進すべく、決意も新たに健闘を誓い合った。


  ◇出撃の最前線基地、殺気走る「地獄の大津島」  

 浜田史郎兄との再度の再会の喜びも束の間、今度は俺が12月1日付けで大津島基地隊に転進命令が出た。大津島基地隊へは、塩津少尉先輩とー緒だったので、大変心強かった。
 当時の大津島基地隊は、回天隊発祥の地で、地獄の大津島とも呼ばれていた。大津島基地隊は回天出撃の最前線基地で、そこで死の順番を待つのである。

 その日は12月1日、大津島基地から土浦空出身の同期生が50名光基地へ 光基地から我々100名の同期が大津島基地へ転進したのである。基地に着任して見ると、さすが大津島だ、皆の顔が殺気ばしっている。波止場まで出迎えてくれた指導官帖佐大尉から「よく来た、ここは回天の発祥の基地である。あの立派な棺桶(回天)で半年程で全員あの世に送ってやる。覚悟せい。厭な者は遠慮せず申し出よ。俺が責任を持って送り届けてやる、心配いらん」と怒鳴られた。最初から度胆を抜かれたのである。

 それからの大津島基地での生活は、さすが実施部隊、練習生と違って、やる事、なす事、全てが真剣勝負だ。
 いかに俺のような横着者で、ふしだらな怠け者でも、死に直結した訓練の日々一生懸命にやらざるを得ない。俺の生涯で、ここの8ケ月間の生活は、一番真剣だったのではなかろうかと、今でもそう思っている。
 同じ宿舎の通路を隔てて土空出身の同期が50名が居住していて僅か1か月ほどの違いだが、みんな眼光鋭くなり、張り切っていた。既に若干名は搭乗訓練を開始していた。

  基地全体がビリビリして、全員が殺気走っている。それもそのはず、9月5日、大津島回天基地開隊当日より訓練開始、その二日目の6日夕刻、一号的にて航走搭乗訓練をしていた回天の創始者の一人である、黒木大尉と樋口大尉が遭難殉職されたのだ。17時40分発進、30分後、深度18メートルの海底に突入遭難されたのである。回天内の裸電灯の薄明りの下で、事故の状況、今後の回天の操縦に関する所見、死を決してから、死の瞬間に至る迄を、遺書と共に冷静に書き綴ったのである。この時の両先輩は、共に24歳頃だった。

 最初の殉職でもあり、基地隊員、全員が「先輩の屍を乗り越えて」を合い言葉に、猛訓練に励んでいた
 既に11月8日、回天作戦最初の出撃菊水隊で三隻を見送り、ウルシー環礁に特攻攻撃を敢行した直後でもあった。

 そして、12月21日、金銅隊出撃。6隻の潜水艦に回天24基を搭載、24名の搭乗員を乗せ出撃。その中のイ58潜には、我々の同期の最初の出撃者である、森稔二飛曹18才、三枝二飛曹19才がいた。ガァム島オプラ港を攻撃、発進戦死。出撃の当日は、大津島の基地桟橋で見送ったが、想像以上に悲壮なものであった。
 20年2月20日、3月29日、5月5日、26日、7月14日と次々に出撃していった。その間大津島、光、平生基地で17名の殉職者が出ている。まさしく、修羅場という言葉が、ぴったりだった。
 
 かかる緊張の大津島基地で3月上旬、塩津少尉が搭乗訓練開始、俺も4月上旬に搭乗訓練に入った。当時としては、訓練開始から大体2ケ月半か、3ケ月で出撃が決まっていた。六艦隊作戦本部で出撃潜水艦及び出撃隊が編成され各隊の搭乗員が決定され 、作戦海域、作戦の目的、作戦の決行日が決定、下命される。作戦の決行日が15日か、20日程前に決まる、作戦決行日即ち、自分の命日が前もって判るのである。

 搭乗潜水艦、決行日が決まってから、突っ込むまでの間の、生と死の心の葛藤は、すごかったであろうと、推察される。
 訓練の過程から逆算していくと、塩津さんは、6月の上旬で、俺が7月の上旬である。しかし、その頃は余り深刻に考えず、ひたすら訓練に励んでいたのである。

 しかし、そんな時代でも、忙中閑ありで、なかなか思い出も多い。搭乗訓練が始まると、出撃要員という事で、日課作業も少なく、格別扱いで、訓練日以外は十分余暇ができる。外出日には、徳山市に上陸して、又又変な遊びである。どうせ死ぬ身、己れの意志より軍部が、そう仕向けたのだろう。

 夕食後は、当日の訓練の研究会が我々搭乗員の宿舎で連日行なわれ、当日の搭乗者が基地隊上層部全点の前で、訓練の模様を説明する。うまく訓練をやった連中はいいが、ヘマやった連中は、士官、下士官を間はず徹底的に詰問、罵声を浴び、壇上で立往生する事もしばしばだった。

  ◇訓練中海底に突入、「おしまいか」と自問自答  

 6月頃、俺が8回目の搭乗訓練の時だ。追従艇の指揮官は塩津少尉。訓練の途中観測の過ちで、潜ってはいけない海域に潜入してしまった。早速追従艇指揮官から発音弾( 訓練中回天が危険な時にそれを搭乗員に知らせる為)が投げ込まれた。慌てて機関停止したが間に合わず、そのまま海底に突入、お蔭で顔を3針縫う羽目になった。追従艇塩津少尉から、基地に連絡、救助のグレン船が現場に到着し救助される迄2時間半程かかった。海底での2時間半は大変長く、裸電球一偶の的内での孤独感は想像以上である。

 海底に突っ込み、遭難している2時間には、色々と思い悩み、つまらん事を想像する。「沈没した俺の的(回天)の場所を巧く、発見してくれただろうか?」「グレン船との連絡は取れて、救助に向かって呉れんだろうか?」「もう、1時間も経ったのに、何をモタモタしているんだ」「顔の傷は大した事はないが、酸素の残りは、後何時間だ」。機関停止後の、処置に間違いないか、もう一度再点検する。処置が間違っているとガス漏れ等が起き、人事不省に落ち入る事が多々ある。

「『応急ブロウ弁( 的が沈んだ時、浮き上がる為、空気を噴射)作動セズ』これだけは書いておこう」。
「追従艇艇指揮は、塩津少尉だから大丈夫だ。今日は、海上も荒れていない。それにしては遅過ぎる。塩津さん頼みますっせぇ」。
「これでとうとう俺もお仕舞いか?今日は肌着は綺麗にして居るから、大丈夫だ」。
 まあゝ 次々と変な事を、思い巡らすものである。外部との連絡は絶対取れないから、孤独感で、自問自答しているしか気を紛らすすべはない。当然である。


 
そのうちに、遠くでゲレン船のエンジンの音が聞こえる。ああゝこれで、やっと助かったとホッとする。ゲレン船はボンボン船ですこぶる遅い。ゲレン船が現場に着き、潜水夫が潜ってハンマァで信号を送る。
 「カン、カン、カン(大丈夫ですか? まだ生きていますか?)」。「カン、カン、カン、カン(まだ生きている、急げ)」と必死で信号を乱打。(当日の顔の傷跡は、戦後15年程、消えなかった)

 夜の研究会はまた大変で、訓練の失敗を徹底的に追求されるのである。覚悟して研究会に臨んだが、そこが先輩、艇指揮官・塩津少尉が巧く誤魔化してくれたので事なきをえた。先輩塩津少尉には色々と、ご迷惑を掛けたり、助けられたりで、思い出は尽きな
い。

 4月半ば頃基地で、今度は羽田中尉海兵73期と、塩津少尉が出るらしいと、噂が流れた。大体訓練の頻度によって、出撃の予定が近い事が、自然と察知されるのである。塩津先輩は5月上旬、隊が編成され、5月半ば宮崎県油津基地三三突に出撃して行った。その隊の編成の中に、我々の期友3名が一緒に出たが、そのうち、7月に井手龍一飛曹と夏堀一飛曹が、空襲により戦死した。その知らせを基地隊で聞いて、塩津少尉の安否を随分心配したもんだ

 その頃は訓練が終了して潜水艦での出撃が予定されている者でも潜水艦が作戦途中で撃沈され、予定どおり帰港しないので出撃の順番は狂って来る。死の順番が狂うという事だ。そこで、散る桜も、残る桜も出来てしまうのである。そこで、八丈島、九州、四国、和歌山等の各方面の陸の最端に回天基地を設営して、訓練を終了した者をどんどん出撃させたのである。

    ◇由良基地に出撃命令、戦傷で入院の兄訪ねて別れ  

 俺も6月中旬から、最後の仕上げの猛訓練に入り、7月某日、和歌山県の由良基地に出撃の編成がなされ、4名の中の一人として、出撃の命を受けたのである。隊長・武永少尉、高山・柴田、松場一飛曹の4名、8月6日出撃と決まる。

 基地隊出撃は、潜水艦出撃と違って、作戦決行日は決まっていない。ただ海岸の最端の壕に回天を配置して、敵の艦隊が、接近した時に突っ込むので、出撃と言っても潜水艦出撃の様な、悲壮感は余りなかった。

 身辺整理も終わって、連絡用の船に便乗、早速、光基地の浜田兄に、最後の決別に行く。当時は、出撃搭乗員は別扱いで、或る程度自由がきいた。突然彼を尋ね出撃を告げたので、回天隊の様子を十分承知して居るだけに、浜田の方が驚いたらしい

 がんらい呑気な彼だが、その時は大分興奮しながら真剣な顔で
「松場、とうとうお前も出撃か。今度こそ、最後の最後だなぁ」と、眼に涙を浮かべながら、俺の手を、しっかり握った事を思い出す。
その夜は二人で浜田のベットで語り合い一夜を明かしたのである。
最後に俺は「出撃の状況様子は、お前にもし機会があれば故郷の親父に報せてくれ」と…。そして俺の、遺髪、遺爪少々と、簡単な遺書めいた物を彼に託したのである。
 俺の方が状況に対して観念していたが、浜田の方が俺との最後の決別の淋しさを噛みしめ、涙をじっと我慢していた様な感じだった。

 そういう思い出を残しながら、大津島基地隊員の盛大な見送り。「総員、帽振れ」の喚声に送られて、大津島基地隊を後にして和歌山県由良基地二二突撃隊に向った。昭和20年8月6日、山陽線徳山駅に着く。「今朝広島に、特殊爆弾が落ちて、広島駅は通過出来ません」との事で、我々は急遽逆行して山陰線で京都に向った。

 途中、隊長から思いもよらない指示があった。「俺達の二二突撃隊着任は8月9日17時迄である、京都駅で36時間の自由時間を与える。幸い柴田も、松場も近くだから、故郷のご両親や肉親と別れてこい。軍務に関しては絶対口外無用。36時間後に京都駅に集合、時間は絶対間違えるな。高山兵曹は北海道だから時間がないがどうする?」「松場兵曹と行を共にして、お世話になってきます 」「それは良かろう」。

 7日お昼前に京都駅で解散、帰省の路につく。日暮れに実家に着いたが、突然の俺達の帰省で家族も驚いた様だった。
 丁度2ケ月程前、轟隊イ361潜水艦で出撃突入戦死した、北海道出身の岩崎静也一飛曹が俺の実家に突然立ち寄った後の事なので家族は驚いたのも無理もない。突然の帰省であったが、母親は色々と田舎料理を作って歓待してくれた。

 その席で、6、7年逢っていない実兄の松場秋夫(操練26期で海軍中尉)が松山343空の701戦闘機隊の分隊士として空戦中、足を負傷し大村海軍病院から京都の日赤病院に空輸にて転院したことが、昨夜連絡があった旨知らされた。

 こういうことを運命というのだろう。思いも寄らぬ俺の最後の帰省、その前日、大村海軍病院から兄貴が転院、人生の中でこんな偶然が在り得るのかと、神仏に感謝した次第。
 早速二泊の予定を変更して、翌日正午の列車で京都に向かった。終戦間際の事、列車は時刻どおりには走ってくれない。変な駅で臨時停車をする。結局京都駅に着いたのは、午後9時頃、急いで日赤病院に駆け付けた。入口の守衛さんに事の次第を説明して面会を求めたが、剣もほろろ。いつも人一倍おとなしい高山兵曹が胸ぐらを掴んで「これだけ頼んでも駄目か? それなら貴様をぶっ殺してまかり通る」。

 驚いた守衛さんの案内で病室に入ると、今度は兄貴が驚いた。「お前たちは、今どこで、何をやっているんだ」。俺は黙って回天搭乗の七つ道具の一つ、ストップウオッチを胸から外し兄貴に見せた。桐のケースに入ったストップウオッチの裏には神潮特別攻撃隊、闘龍隊、松場一飛曹と記してあった。これを見て兄貴は、「あっ、ここでは駄目だ」と一言言ってしばし無言。回天の事は多少解っていたのだろう。

 「今さらお前たちに、武運長久とか、無事にとかはいえない。ただ成功を祈るだけだ」。2時間程、近況を語り合って夜中の12時頃、病室で別れた、別れ際、俺達が所持していたバイ缶、練乳缶、まずいホマレの煙草等少し置いて、決別した。

 全員無事集合、基地に出発し、着任。基地では、搭乗員を特別扱いしてくれて、宿泊居住は、大阪屋旅館を指定してくれた。

 着任一週間程でご承知の終戦、あっけない幕切れであった。しかし当日、基地司令より司令室に呼ばれ、「貴様たち搭乗員は至急大津島基地隊に復帰せよとの命令だ」との指示で、二日がかりで大津島基地にたどり着いた。基地隊では昨日迄、ボツタム宣言受諾、終戦の報に、搭乗員は 徹底交戦を叫んで、拳銃、軍刀等で、大分暴れたそうだ。

 8月22日、我々搭乗員に一番先に復員命令が出て、空虚のまま帰郷の旅についた。俺は京都駅に下車、日赤病院に立ち寄ったが、終戦後一週間程で、病院はゴツタ返していて、軍人である兄貴連は特に冷遇されたらしく、俺の顔を見るなり「よう寄ってくれた。ここの病院では駄目だ。至急帰って、俺の入院先の病院を手配して、迎えに来てくれ」との事で、至急帰郷、地元の紀勢病院に入院の手続きを済ませ、翌日また兄貴を京都まで迎えに行き、そのまま入院させて俺の終戦時の混乱は終結した。

  ◇忘れえぬ友、仲間の遺骨胸に出撃し帰らず  

 還暦が過ぎたと思ったら、早や喜寿が目前に迫って来た。静かに過去を振り返って見ると、色々な事が思い出されるが、どうしても一番強烈に思い出されるのは、あの戦争末期、青春の総てをぶっつけ、一つの目的に向かって、ほとばしる様な情熱と闘魂を胸に秘め、崇高であり、又厳粛でもあった回天搭乗訓練に明け暮れた10ケ月の日々だろう。

 昭和19年11月8日の第一回菊水隊の出撃以来、終戦の日まで100基以上の回天が15隻の潜水艦とと共に次々に出撃して行ったのである。このうち8隻が沈没、潜水艦全員及び中には発進前の回天搭乗員、回天整備員総てが散華されたのである。

 最後に「忘れ得ぬ友」岩崎静也一飛曹の思い出を記して終わろう。轟隊に編入された岩崎一飛曹は、隊長の小林中尉のもと5名が搭乗し、5月23日、光基地からの出撃が決まった。出撃前に最後の帰省休暇が与えられたが、北海道出身の岩崎一飛曹は、帰省して肉親に最後のお別れをすることができない。三重県の菰野の小林隊長宅に一泊し、いろいろお世話になり、翌日俺の郷里の三重県尾鷲まで足を延ばし、俺の実家に一泊したのである。

 最後の休暇も終わり、帰隊後すぐ俺のところへやってきた。
 「松葉、貴さまの実家に一泊してお世話になってきたよ。お寿司やオハギなど色々御馳走を作って頂いて歓待してもらってきた。お蔭で自分の実家に帰って肉親に逢うた気分だった。有難う。帰りには貴様の周囲の方々から餞別まで頂いてきた。どうせ俺は2,3日で出て往く。俺には今更使い道のない無用の金だが、自分の肉親から頂いたと思って封を切らずに搭乗服に仕舞って出て征くよ。そして坂本豊治(5月16日、訓練中に殉職した一飛曹)の遺骨も胸に抱いて一緒に征く。貴様からも、俺が喜んで出て征ったと、貴様の郷里の皆さんに宜しく伝えてくれ」。
 これが出て征く者、残る者二人が、しみじみ語り合った最後の一時だった。
 
 戦後お袋に聞いた話では、岩崎一飛曹は、ニコニコして何も言わなかったが、別れ際に「お母さん、近いうちに必ず松場も帰省するでしょう。その時は出来るだけの事をして上げて下さい」とぽつんと一言、言ったらしい。

 轟隊は編成の都合上、光基地からイ三六一潜に乗り込んでの出撃である。当日我々10名程で大津島から光基地まで彼らの見送りに行った。我々は光基地の桟橋で、総員見送りの位置に着く。その前を、決別の挙手の敬礼をしなから、各隊の搭乗員が、ランチで各潜水艦に乗り込んで行く。
 当日は殉職した坂本一飛曹の遺骨を純白のサラシに巻きしっかりと胸に抱き、七生報国の鉢巻きをきりりと締め、あの童顔で生真面目な岩崎一飛曹の雄姿がイ三六一潜水艦と共に豊後水道の彼方に消えていったのである。

 戦後、何回かは仙台に在住していた関係で坂本一飛曹( 岩手県金ヶ崎)のお墓参りに行っているが、残念ながら岩崎静也の墓参りは、長年気に掛かっていなから、ついにお墓の場所が解らないまま、いつの間にか時が過ぎてしまった。どうしても墓前に花の一輪でも捧げたく思っていたのに悔やまれて仕方がない。

「わだつみは青く澄みたり その若き命惜しまず
回天の道をさきがけて ふたたび帰り来ぬ君
     静まりて今日もきのうも」
          (田中彰作詞「回天追悼の歌」1番)

 この歌を静かに口ずさむとき、散りし友の姿が彷彿として瞼に浮かび、今なお目頭が熱くなるのを禁じえない。

 平成12年5月、自己の人生に対する懺悔と散華せし亡き友への鎮魂を兼ね、亡き友の写真をカバンに入れ、四国霊場八十八ケ寺を巡拝し終え、ホッとしている、今日この頃である。                       [終わり]

                                ◇

 「遠い思い出」では、由良滞在中のことはあまり書かれていませんが、本文に紹介したように、松場公平さんは啓人さんに「毎日、海岸へ出向いては回天の到着を待ちわびた」と話していました。また、「大阪屋旅館では図上演習もそこそこに部屋で柔道をやり、隊長から『大けがをする前にやめておけ』と叱られた」と思い出和を語っていたとのことです。

 また、回天の操縦の難しさを尋ねた時、松場さんは「まず恐怖心が来る。真夜中の運動場で真っ暗な中、目隠しをして自転車に乗るような感じで、シャンシャンと音だけが聞こえ、ゾーッとする」と話していた。訓練時間も限られ、他の隊員から同乗訓練を申し込まれても万一の事故を考え同乗させなかったといいます。

 掲載の出撃前の記念写真は、長く不明となっていましたが、戦後60年目の年に「回天会」が見つけたものだそうです。
 文の改変は行っていませんが、内容に基づいた小見出しを入れ、現在では読みにくい漢字表記などは常用漢字やかなに置き換えています。

 この原稿をもとにした「遠い思い出」の全文は、東海甲飛13期会が平成14年に発刊した記念誌「我らの航跡」に収録されています。東海地方にゆかりのある甲種飛行予科練習生第13期生が集まった会で、記念誌には、いろいろな経験をした会員の手記や資料を掲載。国立国会図書館(東京都千代田区)、奈良県立図書情報センター(奈良市)で閲覧できます。
 

                               (編集・小泉 清)=2020.5.15
 
   「回天」基地・白崎のハマユウ=2011.7.14取材
   

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