「回天」基地・白崎のハマユウ  和歌山県由良町          

   
                
  
 
   
ハマユウの花越しに黒島、十九島と続く海岸を望む
 
・花期 
6月下旬~8月上旬
・交通案内   白崎岬へはJR紀勢本線紀伊由良駅から中紀バスで大引集落西端の白崎西下車、徒歩20分
電話 由良町観光協会(0738・65・1203) 、中紀バス(0738・65・2222)
                 =2011年7月14日取材、15年7日7日追記=
        
 梅雨は例年よりも早く明けたが、どんよりした気分が全国をおおう7月、ハマユウの咲く紀州の青い海と青い空を再び見たくなった。由良港沿いの県道を西へ走り、神谷の集落を抜けると穏やかな湾の風景が、紀伊水道に面した勇壮な景観に一変し、白亜の岬が突き出た白崎が姿を現わす。持統天皇の紀州巡行の際に詠まれた「白崎は幸く在り待て大舟に 真楫(かじ)繁(しじ)貫きまたかへり見む」で知られる紀伊万葉の舞台だ。

   白い岬から海見つめれば終戦の夏

  大引の集落が近づくと、道沿いにハマユウの花が咲いている。ハマユウは背が高いものは1m近く、6枚ずつの花びらの花がいくつも集まる。濃い緑の厚い葉は長く、鋭く伸び、熱帯から亜熱帯に育つ植物の力強さを感じさせる。

 海流の入りこむ土生ケ田和(はぶがたわ)の浜は紀州でも有数のハマユウの自生地だったという。「ハマユウの種は殻にしっかり保護されて海水に浮きます。ベトナム、中国南部、沖縄など亜熱帯地域のハマユウの種が、スイセンやアコウと同様に、黒潮の分流に乗って流れてきたのでしょう」。由良町誌編纂委員長を務め、和歌山県の生物に詳しい後藤宏さんから教えてもらったことがある。

   ◇黒潮が運ぶ種、自生のハマユウは消えて

 しかし、今、自生のハマユウはどの浜に見られない。大引の浜も昔は一面に咲いていたが、1960年の伊勢湾台風や道路の拡充などで浜が狭くなってしまい、消えてしまったという。10年前にたずねた時に数輪残っていた土生ケ田和の浜も水処理施設がつくられて様相が変わり、ハマユウの姿は見られなかった。

 今、目にするハマユウの多くは「由良町ゆかりの花を再び」と海岸沿いに苗を植えたり種をまいてきた人々の取り組みの産物だ。その栽培種のハマユウも「ずらっと並んでいたところも、ほかの草の勢いに押されてしまいだいぶ減っていました」と集落の人がいうようになかなか生育も難しいようだ。

 大引の集落には根が石垣をわるまでに成長したアコウの木がある。このあたりが北限で昔は並木となるほど多かったという。「実を果物として食べ、浜辺で木陰をつくる木として大事にされていたアコウも、戦後は『役に立たない木』とみられ、海岸沿いの道路建設などの際に伐採されてすっかり減りました」と後藤さんが話していたのを思い出した。

 集落の西の歌碑を通り海岸沿いの車道を歩く。炎天下の舗装道は照り返しが強く、先に工事現場があるのか、タンクローリー車がひんぱんに走るので快適な歩行とはいいかねるが、立巌岩など太平洋から打ち寄せる波が作り出した海岸の造形は車で走り抜けるのにはもったいない。ダイビングサイトやオートキャンプ場になっている白崎海洋公園の前を1キロほどいくと、海岸べりの高台にハマユウやカンナの花が広がっていた。その向こうには黒島、十九(つる)島、有田方面の岬など変化に富んで続く海岸が見渡せ、海の向こうに淡路島の陸地が延びている。道沿いにはハマゴウ、ハマナタマメなど暖地性の海浜植物が見られる。


    ◇海防の要衝、出撃待った「回天」隊員

 来た道を戻ると白崎海洋公園の入り口に、「人間魚雷『回天』」基地跡」と記された由良町教委の説明板があった。 「紀伊水道へ侵攻してくる連合軍の艦船を攻撃するため、爆薬を装填した一人乗り潜水艇を操縦する特攻隊員が配属されていたが、回天の配備が遅れ出撃することなく終戦となった」と書いてある。

 
 町史などによると、由良町は、大阪湾に通じる紀伊水道に面した海防の要衝だけに、太平洋戦争の開戦2年前の1939年に海軍紀伊防備隊が置かれ、1945年夏には本土決戦に備えてと、魚雷を積んで敵艦に突撃する一人乗り潜水艦「回天」の基地が建設された。当時石灰岩を掘り出していた白崎の洞窟を広げ、回天格納庫や海に運び出す軌道を設けた。

    ◇「どうすれば攻撃に成功できるかだけを考えた」

 結果だけを抜き出すと結局「回天の出撃はなかった」のだが、隊員にとっては生死の境を越えた重い体験だった。2002年に、旧制三重県立尾鷲中学在学中に予科連を志願、終戦当時18歳の隊員だった松場公平さん(当時75歳)(名古屋市東区)から話をうかがった。「8月6日に訓練基地があった山口県の大津島を出発しましたが、原爆のため山陰線回りで京都へ。隊長のはからいで故郷の尾鷲を訪ね由良に着いたのは9日でした。どの回天に誰が乗るのか順番も決まっており、どうすれば敵艦の攻撃に成功できるかだけを考ていました。11日か12日には回天を積んだ輸送船が到着する予定で、沖合いを見てまだか、まだかと待っていました。しかし、回天は来ないまま15日に終戦を知らされ、大津島に戻ったのです」と当時の心情を話していただいた。

 戦後、名古屋や仙台で木材業を営んできた松場さんは2001年、戦友と由良町を56年ぶりに訪問、今は県道トンネルになった基地跡などを回った。「浜の松林は消えていましたが、白崎を望む海岸の景色は昔のまま。当時のことが鮮明によみがえりました」と話していた。

 その松場さんは2010年8月6日に83歳で亡くなられていた。妻の充子さんにうかがうと「戦死された先輩隊員のお参りに毎年、毎年長野に行き、回天のことは家族に何度も話していました」と言われた。インバール作戦を生き抜いた戦争体験から由良での「回天」の記録に尽力してきた後藤さんも同年3月に満91歳で死去するなど、当時を直接知る世代が去る中、歴史としての由良の回天基地さえ風化していくおそれがある。

 「回天」搭乗員が泊っていた大引の集落の旅館「大阪屋」もかすかに看板の跡を留めるだけで、地元でも「回天」をしのぶよすがは少なくなってきた。町教委の説明板も目につきにくい場所にあるせいか、白崎海洋公園を訪れる人はほとんど気付かないようだ。

 詠み人知らずとされる作者が「白崎よ、幸くあり待て 」と呼びかけた白い岬。その地で66年前の夏、回天の到着を待って海を見つめていた若者たちがいたことは記憶に留めておきたい
                                            (文・写真 小泉 清)                    [参考図書]  「由良町誌 上」 同編纂委 1995                                          →トップページへ