敗戦目前の渡満、ソ連参戦、シベリア抑留…紙芝居で伝える                                 
  満蒙開拓青少年義勇軍資料館で見た紙芝居を作者の成田富男さんがどんな気持ちで描いたのか、ぜひ知りたくなった。成田さんが横浜市港北区で活動してこられたことを知り5月に訪問、紙芝居の原画、原文を見せてもらいながらお話を聞いた。

  ◇但馬に生まれ「農業なら広い満州で」と義勇軍に
 
 成田さんは昭和4年12月に兵庫県美方村(現香美町)に9人きょうだいの次男として生まれた。国民学校高等科に進み、予科練を志願したが、まず身体測定を受けた時点で「身長が足らない」と落とされた。むらに海外航路の船員OBがいてそのかっこよさに惹かれたが、船酔いの不安がぬぐえず断念した。農業を行おうとしても次男には土地がなく、満州に視察に行った隣の学校の校長の話を聞いて「同じ農業をやるなら広い満州で」と卒業した昭和19年3月、14歳で満蒙開拓青少年義勇軍に入隊した。

  ◇苦闘の経験 帰国後の商売に生きる
 
 資料館の紙芝居に描かれていたように、昭和20年5月の撃沈ぎりぎりの中での渡満、ソ連参戦、シベリア抑留という過酷な体験をしながら復員できた成田さん。そこには、幸運をつかむ力と、大事な時に良い人と出逢えたことがあった。青少年義勇軍隊員を1人ずつ50人の部隊に割り振る構成だったので、最年少だった成田さんはシベリアでの作業に耐えることができた。極寒の朝の沼地での水汲み作業で凍傷にかかった時、先輩が必死に足を揉んで助けてくれた。抑留も、シベリアからウラルに移ってからは気候や労働条件が良くなり、事務所の清掃を買って出てロシア語を覚えると、富男にちなみ「トーリャ」という名前もつけてもらった。

 辛いこと、苦しいことが多かった大陸での5年間だったが、「危機を勝ち抜く」「何事も楽観的に考え行動できる」といった自信を土産に帰国できたことが、その後の人生で生きた。昭和23年に帰郷。郷里の先輩が独立して大阪市で始めた真鋳販売店に丁稚奉公することになった。1年半して東京・御徒町に支店が設けられることになり、成田さんは赴任を命じられた。「大阪では注文を取るため走り回っているのに、東京の商売人は店で注文を待っている」と気づいた成田さんは大阪流で顧客を広げた。朝鮮特需の追い風もあって真鋳製品はどんどん売れ、成田さんは東京支店長に抜擢された。

 40歳になって成田さんは独立。他業者とかぶらない北関東、静岡県、新潟県を重点に小型トラックで走り回った。チリからの銅輸入が全面ストップしてピンチに立ったことがあったが、必死で探し回るうちに、契約の行き違いで在庫を抱えた業者にぶつかり、切り抜けた。事業は65歳まで全力で行い、二男二女はそれぞれ別の道を選んだため、きれいに店じまいした。

   ◇機甲軍団が蹂躙、放置された遺体の光景 絵に残す

 仕事に追われていた時にも、成田さんが持ち続けていた志があった。ソ連軍に武装解除され北へ移動させられる途中見た光景、ソ連軍の侵攻に応戦した部隊が、機甲化軍団に押しつぶされ、そのままの遺体が3キロにわたり放置されていた。成田さんの配属された部隊は丘の陣地でソ連軍は無視して通り過ぎたが、平地に布陣したこの部隊は徹底的に蹂躙(じゅうりん)された。成田さんらは先へ追い立てられ埋葬もかなわず、「南無阿弥陀仏」と唱えながら通り過ぎるしかなかった。「この光景を絵に残しておかなければ…」と帰国した時から思っていた。

 仕事から退いた成田さんは、この光景や、母の見送りを受けて義勇軍に戻る場面など10枚を描いた。そして70歳を過ぎて地元の福祉施設の絵画展に出品したところ、見た人からの反響が主催者に相次いだ。「もっとあの当時のことを知りたい」という感想が多かった。成田さんは義勇軍入隊から帰国までの場面を紙芝居にして伝えることを決意。画用紙40枚に印象に残る場面を水彩で描いた。絵を一枚描くごとに、読み上げる文を一枚分びっしり書いた。

 75歳までに5部を制作、義勇軍資料館のほか、平和祈念展示資料館(東京都新宿区)、舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)など全国のゆかりの5施設を訪ねて寄贈した。また地元の小学校を中心に紙芝居の上演を続けた。なかなか帰れない郷里の小学校や集落の集会所でも里帰り上演を果たした。

   ◇「戦争をしない国になった嬉しさ」心に刻み 

 今年12月で90歳を迎えるだけに、足腰が弱って紙芝居の巡回上演はできなくなった。しかし、平和祈念展示資料館での「語り部活動」は今も続け、6月には埼玉県の私立高校のリクエストを受けて話すことになっている。「体力を保つため、毎朝スーパーまで往復し1日5、6000歩を歩くようにしています」。


 紙芝居の出発点となった絵を手に成田さんは語る。「ソ連が中立条約を破って攻めてくるとは知らないまま関東軍を送り出し、義勇軍は空っぽの陣地に放り込まれたんです」。また「(ソ連の侵攻がなければ、という人もいるが)開拓といってもブラジルと違って日本が支配し、ただ同然で土地を取り上げてという形では長くはおられなかったでしょう」。

 成田さんには心に刻み続けた19歳の時の思いがある。「日本に帰ってきて一番嬉しかったのは、日本が戦争をしない平和な国になっていたこと。そうでなければ、今度は始めから兵士として戦争に行かなければならなかったのですから」。そして「私の体験を生かし、お話しすることで恩返しができれば…」。紙芝居で語り続けてきた成田さんの声は今も力強い。

                       (文・写真  小泉 清)=2019.5.21


  [参考サイト]  平和祈念展示資料館ライブラリー 抑留体験者のお話   https://www.heiwakinen.go.jp/library/video/video_yokuryu.html
   
     
満蒙開拓義勇軍「渡満道路」の桜=2019.4.18取材
      
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