満蒙開拓義勇軍・渡満道路の桜 水戸市内原町           

・時期 4月上旬〜中旬
・場所 JR常磐線内原駅から南へ20分
・電話  内原郷土史義勇軍資料館(029・257・5505)
    =2019年4月18日取材

内原訓練所正門から続く渡満道路で終盤を迎えた桜
 
 
 天皇陛下が伊勢神宮で退位の報告をされた 4月18日、水戸市内原町の「渡満(とまん)道路」の桜並木では、100本を越すソメイヨシノが花吹雪を舞わせていた。渡満という言葉は今では使われないが、満州(中国東北部)に渡ること。昭和13年にできた「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」で農事や軍事の基礎訓練を修了した16〜19歳の若者が、満州での3年間の実習と営農に向かうため、訓練所正門を出て国鉄常磐線内原駅まで行進したので渡満道路と呼ばれた。

 大規模営農の夢も戦火で消え 多くの拓友帰れず  

  私は逆方向にJR内原駅から訓練所跡まで1.5キロを歩いた。幹線道路を東に折れた先から訓練所正門跡まで800mほどの道の両側に等間隔で桜が並んでいる。昭和16年に訓練生の父親の寄贈で植えられた木が平成になって弱ってきたため、出身者の寄金で平成5年と7年に計70本を補植したそうだ。おかげで桜並木は平成が終わりを迎えても保たれ、水戸市で有数の花見どころとして親しまれている。この日も、舞い落ちる花びらを追う幼子もいた。

 36.7haの広大な訓練所は戦後解体され、一部に病院や中学校が建てられた。15年前に病院が移転して工場、住宅地、福祉施設に替わっている。正門から南の訓練所内の道路沿いにも桜並木が続いている。正門近くの一角だけが内原訓練所跡を示す場所として保たれ、大きな記念碑が建てられている=写真左。700m北には平成15年に内原郷土史義勇軍資料館が開館。義勇軍で使った農具や服装、腕章、教本、修了証書などの現物資料を展示。「古ノ武士ニ負ルナ」に始まる26項目の心得や綱領を掲げている。

 特に満州での実地訓練を記録し「われらは義勇軍」の歌を流す映像は貴重な史料で、トラクターを使った大規模営農の模様が映し出している。「大陸日本 築け若人  満蒙開拓青少年義勇軍募集」と呼びかけた斬新なデザインのポスターもある。PRには手段を駆使して行っていたようで、農家の次三男の多くが夢を抱いて応募したことがうかがえる。

 ◇ソ連侵攻、シベリア抑留で2万人以上が大陸の土に

 開館したころは義勇軍出身者がボランティアとして体験に基づいたガイドをしていたが、亡くなったり高齢になって通えなくなった。それに替わる体験記の中で特に目を引いたのは、横浜市在住の成田富男さんが手作りでまとめた紙芝居。義勇軍への入隊、訓練、渡満、ソ連参戦による応召、シベリア抑留、舞鶴への帰還が生き生きした絵と文章で描かれている。訓練所でホームシックにかかって体調を崩し、兵庫県北部の但馬地方への帰郷を許されてすぐ回復したが、父親の命令ですぐ戻らされた。成田さんの兄も徴用に出ていたが、近所では息子二人が徴兵されてともに戦死している家も多く、義勇軍から帰ったまま家に置くわけにはいかなかった。博多から釜山に木造漁船で渡ったのは昭和20年5月。当初下関から乗る予定だった船は米潜水艦の魚雷で沈められていた。

 満州に着いて営農実習を始めたものの、8月9日にはソ連参戦、ただちに応戦に向かった。成田さんが入った陣地にはソ連軍は襲ってこず、三八銃を一発も撃たずに終戦を迎えた。捕虜となった成田さんはシベリアに抑留されて強制労働に就かされ、仲間の死に直面したが、生き延びて3年後に帰ることができた。

 同館の資料によると、終戦までの8年間に渡満した訓練生は86530人。宣伝とはうらはらに営農もそこそこに現地召集された人が多く、ソ連軍との戦闘やシベリア抑留で戦後も帰郷できなかった人が2万人以上と記されている。家族を連れた開拓団も含めて、「五族協和」「他民族ヲ敬セヨ」の理念と違う現地の人からの実質的な土地収奪もあって開拓民の帰還は困難を極め、残留孤児問題が今も続いていることは史実のとおりだ。

 ◇「まず事実伝えよう」と全国の出身者からゆかりの品

  一方、義勇軍の地域や国内での貢献面について触れている。昭和18年から義勇軍幹部訓練所農場など3か所で育てたサツマイモの優良苗が戦後の食糧危機回避に役立ったこと、昭和15〜18年に農業増産報国推進隊として全国から集めた計54000人に短期集中訓練を行ったことが、終戦後に生きたーなど、あまり知られていない側面が説明されている。

 館内の展示物は、訓練所OBでつくる「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所史跡」保存会が全国に呼び掛けて集めたもの。資料館も保存会を中心とした要望が当時の内原町を動かして実現した。桜並木の復活運動も建設の機運を盛り上げた。義勇軍については、負の歴史としての見方の一方、「ソ連の侵攻で大きな犠牲は出したが、目的は正しかった」とする考え方をとる関係者もいる。同館は「まず事実を正確に伝えることが目的」として設立されたという。義勇軍への志願者が多かった長野県などから訓練所出身者の家族らの来館もあり、村ぐるみの開拓団を出した岐阜県群上市の「たかす開拓記念館」、長野県阿智村の「満蒙開拓記念館」の案内も置いてある。

 ◇犠牲となった寮母さんの聖観音も、供養絶やさず

  「資料館周辺案内図」には、内原町に残る義勇軍関係のスポットが紹介されている。内原駅から訓練所跡に向かう幹線道沿い、山門付近に芝桜の花が広がり境内のしだれ柳が目を引くお寺があった。真言宗智山派の地蔵院。桜の樹下には義勇軍の出身者が建てた「満蒙開拓殉職者之碑」がある。毎月18日は農耕馬を守る馬頭観音の開帳日、住職の伊澤照賢さん(75)が準備に合わせてこの碑やかたわらの聖観音像に花をたむけていた=写真左。

 聖観音像は、満州の訓練地で若い訓練生の母親がわりとなって世話していた寮母さんで、ソ連侵攻後の状況で亡くなった20人を超す女性の供養に建立された。当初は東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑に建てられたが、管理上の問題などがあり、この地に移った。戦後、遺骨となって帰国した隊員の中でも35柱は出身地がわからず、地蔵院に安置された。その後の調査でも15柱は不明のままで、同院で守り続けている。

 伊澤住職は「10年ほど前までは、拓友会の慰霊祭が春のお彼岸に開かれ、全国から出身者の方が集まっていました。中隊ごとの慰霊祭もあり、その後に懇親会を持たれていました」。しかし、最近は亡くなったり、高齢で遠出できなかったりで慰霊祭は途絶えている。「それでも遠方から来られる家族の方がいます。訓練所に一番近くご縁のあった寺として供養を続けていきます」と話していた。

 平成から令和への代替わりは慶事だが、昭和の前半はますます遠い時になりそうだ。現代に連なる記憶と教訓は、しっかり留めておきたい。      (文・写真  小泉 清)

 
敗戦直前の渡満、ソ連参戦、シベリア抑留…紙芝居で伝える 2019.5.21取材
                  
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