兄・啄木から遠く、近く…渋民に光子想う                               
  春の姫神山登山と合わせ、石川啄木が生まれ育った旧渋民村をレンタサイクルで回った。今回は啄木と強いつながりを持ち、キリスト者として生きた妹・光子を偲ぶ行程だ。

 まず、石川啄木記念館。5月13日まで企画展として「啄木の妹・光子」が開かれている。「船に酔いてやさしくなれる 妹の眼見ゆ 津軽の海を思えば」「クリストを人なりと言えば 妹の眼がかなしくも われをあわれむ」などと詠まれている光子は、2歳年下の妹。関西には最も関係の深い啄木ゆかりの人だ。光子は牧師の夫・三浦清一とともに大戦中の昭和19年に来神、神戸市兵庫区で家庭的に恵まれず非行に走った少女を育てる施設「愛隣館」を昭和43年に79歳で亡くなるまで運営した 

 ◇「兄のこと今一度」本づくりの意思手紙に

  今回の展示会は、生前の光子が信頼を寄せていた青森啄木会会長の川崎むつを氏に充てた書簡が、川崎氏の死後引き継いだ関係者から同館に寄贈されたことから開催。昭和37年から39年にかけての30点が展示されている。力強い筆勢なのだが達筆すぎて判読しがたいところもある。簡単な解説は添えられているが、内容を理解するために、学芸員の佐々木裕貴子さんらがワープロ打ちして整理された書簡文を読ませてもらった。

 展示書簡の中心は昭和39年に理論社から発刊された「兄啄木の思い出」をめぐるやりとり。昭和23年にも「悲しき兄啄木」を出しているが、夫の死別後、体の衰えを自覚していた光子からは「ぜひ一つ残したい。ご一緒に考えていただきたい」(昭和37年6月21日)、「父の歌と兄のことどもを今一度もっとまとめたい」(昭和38年9月20日)と強い思いが何度も寄せられている。刊行後の昭和39年10月には「おかげさまで、かなりあちこちからいってきます。思いましたよりきれいな本となりました」と喜びをつづっている。川崎氏が光子と編集部の仲立ちをしていた経緯もあり、光子の文意が丸められないように要望する手紙も見られ、光子がこの本にかけた意思の強さと、川崎氏への信頼がうかがえる。

 「愛隣館」を改築するにあたって「1階も少女らの部屋にあてるので、私たちは足も伸ばせません」と施設の運営に苦心する様子もうかがえる。社会福祉研究者として米国に留学した長男・賜郎の健康を心配して、帰国後の一時滞在先を川崎氏に相談するなど、母親ならの心遣いも見える。

   ◇好摩駅の歌碑除幕が最後の帰郷に 

  記念館を出て、国道を東に向かって好摩駅で線路の北側に渡る。小高い丘にある夜更森公園。モクレンやコバノミツバツツジが開花しているふもとから標高200mの頂に上がると、「霧深き 好摩の原の停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ」の啄木の歌碑が建てられている。西側に姫神山、東に岩手山を望む地。碑は姫神山の麓から切り出された花こう岩、台座には岩手山の火山岩が使われている。

 この歌碑は昭和35年6月に地元有志の手で建てられ、刻まれた字は光子が書いたものだ。そしてこの除幕式の時、73歳だった光子は神戸から夜行列車を乗り継ぎ、村の若者に背負われて出席した。 啄木在世のおりは渋民駅はまだなく、啄木が文学を志して東京に出る時も好摩駅からだった。そして明治40年5月、渋民小学校の代用教員を免職になった啄木、盛岡女学校を退学していた光子がともに北海道に向かった時も好摩駅からだった。

 この時撮影された光子の写真が、記念館で展示され、ポスターにも使われているが、どういう思いだったのだろうか。これが、光子にとっての最後の帰郷となった。啄木と同様、渋民への望郷の思いは強く、啄木の墓を函館でなく、渋民に置きたいという気持ちを強く持っていたが、これは実現しなかった。

   ◇啄木没後56年、強い意志で未来めざす 

 啄木記念館でも光子に焦点をあてた企画は初めてという。佐々木学芸員は「光子の視点から見ることで新しい啄木像が浮かび上がってくるでしょう。今後、光子さんの子孫の方々にもご連絡をつけて、調査を深めていきたい」と話していた。

 私は盛岡に行く前、愛隣館のあった神戸市兵庫区楠谷町を訪ねていた。愛隣館は光子が亡くなって3年後に閉館、今は集合住宅が建てられて名残もない。近所の年配の方に何人かに尋ねたが、愛隣館も三浦光子も、知る人はいなかった。

 啄木が亡くなった後、56年間生き抜いた光子については、あまり知られていない。キリスト関係者の中でも、活動的な牧師で戦後、左派社会党の兵庫県会議員にもなった夫・清一を通じて光子を知る人も多いようだ。しかし、戦中・戦後の混乱の時期に難しい少女の施設を運営してきただけでも、強い意志と実行力のある女性だったのだろう。

 それにしても、昭和12年に熊本で行った「兄啄木を語る」の中で、光子は「フ ナロード」(人民の中へ)を繰り返す「はてしなき議論の後」を引用している。「神を中心とする私と、唯物史観よりほかにはなかった兄と、どうしても一致することができなかった」と言いつつも、「新しき明日の来るを信ず」点では共鳴しあっていたのではないだろうか。

 代用教員時代の啄木が「命の森」と呼んで散策した愛宕神社の森にはその歌碑があった。「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれどー」。

                =2018.4.20取材 (文・写真  小泉 清)
              
 [参考図書] 三浦光子「兄啄木の思い出」 1965 理論社
          小坂井澄「兄啄木に背きて」  1986 集英社

                
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