紅葉に飾られた蓮華寺の北条仲時主従の墓

<中山道>

<了徳寺のイチョウ>

                     
  中山道62番目の宿・番場の蓮華寺は、鎌倉幕府の西国支配のトップ・六波羅探題北方の北条仲時一行が自刃し、幕府の最後を飾る舞台となった地だ。主従の墓石が並ぶという境内は、その悲劇を伝えるかのように紅葉が染めていた。

  鎌倉武士の最期の光芒 鮮烈に

 番場の集落の東側、名神高速の下をくぐると、鎌倉時代には踊躍念仏の一向上人が開いた寺として栄え、花園天皇から勅願寺の名を許されたという歴史を示す勅使門前に達する。その前のカエデの大木は、紅葉真っ盛りの枝を広げて門を包み込んでいた。

 今は湖北の里に静かにたたずむこの寺は、元弘3年(1333)歴史の転換点の現場となった。北条仲時はこの年、後醍醐天皇についた足利尊氏らに敗れ、北朝の光厳天皇らを奉じて鎌倉に向かおうと計画、街道を下った。だが、四方を山に囲まれた番場宿にさしかかった5月9日、敵に阻まれ蓮華寺の本堂前で432人が自刃。その血が川のように流れた、と「太平記」などに記されている。

 境内に入り、赤と黄色の紅葉がアーチをつくったような本堂横の参道の坂を進むと、左手に無数の墓石が並んでいた。後世の僧が供養に建てたものを集めたといい、現在残っている墓は380余りという。

 墓石の背後はヒノキの林となっているが、墓前には思いを残して亡くなった将士を弔うかのように数本のカエデが伸び、黄色から赤に紅葉している。ここに眠る人々の子孫が植えた木もあり、その脇には「自刃せし遠祖の眠る蓮華寺 散り敷く紅葉流る血の如(ごと) 朽竹」と詠んだ歌碑が建てられていた。

  ◇踊躍念仏の一向上人が開いた大寺

 坂を上りきると、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に辻堂となっていた寺を再興し、蓮華寺として開いた一向上人(一向俊聖)の
墓がある。浄土宗の門に入った後、時宗の一遍に先駆けて独自の踊念仏を行いながら全国を巡り、民衆の信仰を集めたといわれる僧。一向は3年後に蓮華寺で亡くなり、寺は江戸時代には時宗一向派大本山の念仏道場としなった。現在は浄土宗に属しているが、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでなく、浄土門に入った喜びを集団で踊って体ごと表現する一向の軌跡は、浄土の教えを広い視点で考えるうえで興味がひかれる。やはり一向が開き、踊躍念仏を今に伝える山形県天童市の浄土宗佛光寺の井澤隆徳住職が蓮華寺の貫主に就いており、普段は番場の檀家12軒の人々が管理や案内を行っている。

 この日は檀家の人たちが朝から総出で寺に出ていて、落ち葉の掃除や台風で倒れた墓石を起こしたりしていた。宝物館を開けて見せてもらった。仲時が使ったという槍や薙刀とともに、後の住職が名のわかっている将士の名を書き残した過去帳(国重文)の写本も展示され、「越後守 北条仲時 二十八歳」以下189人の名が書き連ねられている。

 六波羅探題北方としての仲時については、はっきりした人物像はわからないが、蓮華寺での最期は「太平記」の「番場にて腹切ること」の中で詳しく書かれている。「北条氏に名を連ねる私が、ここまで付き従ってきた諸君のために自害して生前のご恩を死後に報いよう」といったことばを引き、将としての潔さと主従の絆の強さを示している。鎌倉開府から141年、元を再度退けた弘安の役から54年、鎌倉武士の最期の光芒を見せたといえよう。

 主従の墓の向かいには「北條仲時及四百余人 記念碑」と刻まれた大きな石碑が明治22年に建てられている。忠義の道を貫いた仲時主従はなんら謗られるいわれはないのだが、行き過ぎた皇国史観の下、南朝方に敵対したとの風当たりは長く子孫に及んだという。子孫は40年前「菊華会」を作り、毎年6月の第1日曜に蓮華寺に集っている。私が2001年6月に中山道歩きの途中に同寺に立ち寄った時、ちょうど法要が開かれていた。この時、年配の会員が話されていた「後醍醐天皇を隠岐に流した大悪人と言われることを恐れて、父の代では先祖のことは触れられなかったそうです」ということばが記憶に残っている。

 一向上人が亡くなった時に植えられ、樹齢700年を超すという杉の古木の下で掃除をしていた田中増一(ますいち)さん(88)に尋ねた。田中さんは「昔はよろいや兜も伝わっていたのですが、戦争中の命令で供出させられました」と振り返り、「最近は仲時の堂々とした姿勢が好感を呼び、関東の方からも歴史好きの人が多く来るようになりました」と話していた。

 蓮華寺の管理には檀家から毎日2人が番に当たっていて、田中さんも月3回出ている。昔より少なくなったとはいえ今でも雪が50cmほど積もって、当番の人が雪かきをして道をつけるという。本堂前の木々には、すでに防雪対策に雪吊りがかけてあった。田中さんは「体の続く限り寺の番はやっていきたいと思っています」としっかりした姿勢で帰っていった。

 ◇オハツキイチョウ輝く醒井の宿へ

 中山道は、番場から次の宿場の醒井(さめがい)を通り東へ美濃、木曾路へと続いている。番場宿は醒井宿と比べて小規模だが、江戸時代は彦根藩が湖上交通の拠点として開いたた米原湊とつなぐ宿場として旅籠が10軒、本陣と脇本陣が1軒ずつあった。「子供のころは旅籠の看板がまだ残っていました」と田中さんは話していたが、今は建て替えが進んでいる。それでも、本陣跡や明治天皇の休憩所などの石碑が建てられ、往時をしのばせている。

 ここから醒井までは歩いて約1時間。民家の前には小菊など秋の花々が咲き、快適に歩ける。北側には雪をかぶった伊吹山が秀麗な姿を見せてくる。地蔵川の清流に沿って東へ進むと、了徳寺では葉にギンナンがつく珍しいオハツキイチョウ(国天然記念物)が黄葉を満載した枝を空いっぱいに広げていた。

 江戸・板橋まで中山道が通じて410年。幕末の皇女和宮など多くの人々が通ったこの道は、これからも時代を刻み、伝えていくことだろう。
                                (文・写真  小泉 清) 
   
 *もうひと足* めぐりあいの祈り込め忠太郎地蔵尊



<勅使門のカエデ>

<本堂の裏>

<一向杉>

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