信太九町だんじり祭と蔭涼寺のモクセイ 大阪府和泉市      

 ・時期  2018年の祭は10月6、7、8日。花期は9月下旬〜10月中旬
・交通  聖神社、蔭涼寺にはJR阪和線北信太駅から。隣接の和泉市駐輪場のレンタサイクルが便利
・電話  和泉市役所(0725・99・8103)、蔭涼寺(0725・44・7340)
    =2011年10月9日取材

聖神社への宮入で最後の坂を駆け上がるだんじり
 
 
  泉州の秋の華だんじり祭。葛の葉伝説で知られる和泉市の信太(しのだ)地区でも 勇壮な「信太九町だんじり祭」が3日間にわたり行われた。本宮の10月9日、各町のだんじりが坂を駆け上がった聖(ひじり)神社から神輿に続いて蔭涼寺(いんりょうじ)まで行くと、本堂の前にキンモクセイとギンモクセイの大木が繁り、祭の季節の香りを放っていた。 

   町の誇りと香り高く 勇壮に坂駆け上がる 

 北信太駅から信太丘陵の方へ歩くと、聖神社の大きな「一の鳥居」に、だんじりが集まり、朝の9時前から次々と参道の坂を上がって行く。今日はこのあたりのまちむらにとって最も賑やかな信太九町だんじり祭の日だ。団地の脇道から聖神社に先回りしてだんじりを待ち受ける。急坂を駆け上がり、鳥居を抜け、最後のカーブのある坂をだんじりが迫ってくる。屋根の上にすっくと立ち、両手のうちわを鮮やかに操る大工方は、どの町のだんじりを見ても、惚れ惚れとする。街の中を疾走するだんじりもいいが、宮入するだんじりには、やはり祭本来の姿が見える。

 古い由緒と格式を持つ聖神社は、信太の森の面影を残し、豊臣秀頼が造営した本殿は桃山時代の華やかさをしのばせる国重文の建物だ。その境内に当番町を除くだんじり8台がそろい、各町の老若男女が集うと、祭にふさわしいにぎやかさになる。

  尾井町保存会顧問のたすきをかけて見守っていた喜田勇さん(81)に、信太のだんじりの特徴をうかがった。20代の時に前梃子を担った喜田さんは「今は安全策から間隔をあけていますが、昔は前のだんじりを追い抜くような勢いで坂を駆け上がっていました。舵の取り方も岸和田のだんじりと違い、もっと荒々しかったです」と当時の若者に戻ったような表情で語った。

 元々の信太九町だんじり祭の主流は「上地車」(住吉型)とで、岸和田で発達してきた「下地車」(岸和田型)より軽く、上りもスピードがあった。下りでは前を持ち上げ、綱で後にブレーキをかけた。昭和から平成に移って、「やり回しに適し、装飾も見栄えがする」と下地車への転換が進み、信太九町でも上地車は使われなくなったが、昔からの気風は受け継がれているのだろう。

  まず山の飛び地へ 神輿担ぐ当番町

 聖神社の神輿は、今年の当番町の宮本町が担いで境内を回った後、聖神社からで出て1・2キロほど南の蔭涼寺に向かった。当番町は本宮ではだんじりを朝から出さず、神輿に専念するのが伝統。鶴山台の住宅地を通り抜け、陸上自衛隊信太山演習場の山林の間の道を進む。このあたりに来ると農村のたたずまいに変わる。蔭涼寺の山門前で地元の人たちが神輿を迎え、宮本町の担ぎ手は、その前で神輿を上げ下げした後、接待を受けた。

 市街から離れたところまでなぜ神輿を渡御するのか尋ねると、ここは「山ノ谷」と呼ばれる尾井町の飛び地。阪和線のすぐ南側の尾井町から随分離れているが、尾井町が祭の当番町の時は協力して神輿を担ぐなど、双方の住人は昔からつながりが深い。そうしたことから、当番町は神輿を担いで、ここまで山を上がるという。蔭涼寺は長い歴史を持つ曹洞宗の禅寺で、市街地の尾井町でも檀家の人が多いそうだが、祭の列は境内までは入らない。
      
 ◇開創から紡ぐ350年の命

 ここで一端祭を離れ、蔭涼寺の山門をくぐる。参道を進むと、正面の本堂の甍を覆うように大木の深い緑が広がる。左側に白い花が散りばめられたギンモクセイ、右側が橙色の小花が輝くキンモクセイだ。両方の枝葉が接してトンネルのようになっており、ここをくぐって本堂の前に出ると、右側の橙色の花が白い花に変わってくる。キンモクセイの木の奥にはもう1本のギンモクセイの古木があり、元々は左右のギンモクセイが対になって植えられていた。

 どちらのギンモクセイも高さ7mを超え、幅10mにわたって枝葉を広げている。普通高さ3〜4mくらいのモクセイとしては数少ない大木で、大阪府の天然記念物に指定されている。花の色も香りも、キンモクセイと比べると地味に感じられるギンモクセイだが、庭木で見ることが少ないだけに、やや幅広の緑の葉に映える白い花は、落ち着いた趣が感じられる。

 この2本のギンモクセイは、寺の開創を記念して植えられたという。寺は江戸初期きっての禅僧・鉄心道印禅師が寛文元年(1661年)に開いており、ギンモクセイはこの時から齢を重ねてきたことになる。曹洞宗を開いた道元禅師がギンモクセイを大変好きだったという。寺伝によれば、宋から帰国した道元禅師は和泉に上陸し、蔭涼寺近くに一時庵を結んだ。熊野街道に近く、周囲に深い山林が広がっていたこの地は、諸国を巡ってきた鉄心禅師が禅道場を開くのにふさわしい場所だったのだろう。淀川の治水工事を行い、東回り・西回り航路を開くなど「天下の台所」大坂の礎を築いた河村瑞賢が、鉄心禅師に帰依して堂の建設に当たったとされることも興味深い。

 そのギンモクセイもピンチを迎えたことがある。1961年の第二室戸台風で右側の木の大きな枝が折れてしまった。もう駄目かと当時手に入りにくかったギンモクセイに代えてキンモクセイを手前に植え、この木が現在の大木に成長した。一方、傷ついたギンモクセイも手当てが功を奏して生命力を回復、再び枝を伸ばしてきたという。

 信太の人にとって、モクセイは秋を実感させる木だ。神輿を担いできた宮本町の人は「モクセイの香りが漂ってくると、『今年もじきにだんじり祭やな』と自然に思います」と話していた

 ◇団地内の御旅所で30年ぶり伊勢大神楽

 神輿は蔭涼寺を出発したが、鶴山台団地の方から各町のだんじりの通過を知らせる放送が聞こえてきた。あわてて下っていくと、歩道に鈴なりの住民が見守る中、だんじりが次々と通り、交差点では遣り回しを見事に決める。団地の中を駆けるだんじりも絵になるものだ。

 だんじりが集まる御旅所をさがしていると、駐車場に人が集まっており、奥に8台のだんじりが並んでいる。駐車場を御旅所にしているのではなく、もともと聖神社の神域で御旅所だった場所を、ふだんは駐車場にしているということだ。各町のテントでにぎやかに昼食をとる中、舞台で伊勢大神楽が始まった。当番町の宮本町が今年30年ぶりに復活させたもので、伊勢から呼んだ神楽講社の獅子舞が華を添える。

 信太連合歴代団長会会長の亀井勝英さん(64)は「信太のだんじり祭は、神輿が主でだんじりが従うという祭の古い形をよく残しています。泉州の中でも山に上がっていくだんじり祭は、ここしかありません。この御旅所にだんじりが集まると、浜手からも輝いてよく見えるんです。新しく開発された鶴山台からは、だんじりは出ませんが、通過の放送など祭によく協力してもらえるようになってきました」と語る。環境が大きく変わる中で守ってきた祭への強い誇りが感じられた。

  昼下がりから各町のだんじりは順々に御旅所を出て急坂を下り、小栗街道など市街を回って各町に戻る。尾井町のだんじりも旧府神社のだんじり庫に納められた。

 「信太九町だんじり祭」は、翌日午後に後宮のだんじりパレードが行われ、3日間の幕を閉じた。祭が終わると蔭涼寺のモクセイの花も散り、信太の森も一段と秋が深まっていく。        (文・写真 小泉 清)       


  
台風21号被害にめげず社叢に囃子が響く
 =2018.10.7取材

 [参考図書] 「堺・泉州の神賑」岸和田市青年団協議会、2008
         「市大日本史第15号」大阪市立大学、2012