霊仙山のイブキトリカブト  滋賀県米原市、多賀町           

2005年9月27日取材(14年10月4日再取材)


・花期 8月下旬〜10月中旬
・交通  谷山谷コースは、東海道線醒ヶ井駅から醒井養鱒場行き湖国バスで上丹生下車 。榑ケ畑コースは醒井養鱒場下車
・電話  米原市役所(0749・58・2227)、多賀町役場(0749・48・8111)
   ←  


霊仙山頂直下の石灰岩地形の中で開花するイブキトリカブト
(2005年9月27日撮影)


 
 
 鈴鹿山系で最も北に立つ霊仙山(りょうぜんざん、1084m)。清流の谷をさかのぼってなだらかな起伏が続く山頂付近に上がれば、石灰岩が石塔のように並ぶ高原にイブキトリカブトの青紫の花が広がっていた。

  石灰岩の山から花と清流の恵み

 木彫の里として知られる滋賀県米原市上丹生(かみにゅう)の集落を抜け、丹生川の谷山谷に沿って歩き始めた。ミズヒキソウ、ツリフネソウなど秋の花が山道を飾る。いつの間にか谷音が絶え涸沢かとも見えるが、水は伏流水となって石灰岩の川床の下をしっかり流れていた。1時間も歩くと再び流れが現れる。支谷が入り込んでわかりにくい箇所もあるが、上丹生で食料品店を営む西出義広さん(67)ら地元の人が案内板を取り付け、崩れかけた道も直していて心強い。

 このあたりから霊仙ならではの花が姿を見せてくれる。白や薄紅色の小さな五弁の花のミツバフウロにも出あうが、特にひきつけられるのは直径5cmほどの朱色の花をつけるフシグロセンノウ。これも五弁の花だが、車輪のような形がアクセントとなり、シダなど周りの緑の中で浮き上がるかのようだ。湿った場所を好むだけにこの谷筋は最もすみやすい環境なのだろう。

 小滝が続く谷を横切ったり、「くぐり岩」という巨岩のすき間を抜けたりするうち、前方に木々の間からまっすぐに落ちる二段の滝が見えてきた。漆ケ滝(うるしがたき)とよばれ、地元の人が設けた案内板では一段目9m、二段目10mとある。細い道をつたって滝つぼに近づくと、滝の飛沫が散って心地よい。

  ◇楽人がかぶる鳥兜の形、高貴な青紫に染まる

 滝の高巻き道から南へ分かれる支谷をつめていくと、柏原からの尾根道と合流する。ここからは谷道と打って変わった明るい道となり、気分も悠々としてくる。ススキが穂を伸ばす一方で、イブキトリカブトの群生が広がる。頂が近づくにつれ石灰岩が石塔のように立つカルスト地形が展開するが、その石塔に添うようにトリカブトが直立している。夏の植物が姿を消し、リュウノウギクの開花にはまだ早い時期だけにトリカブトの花が一層目立つのだろうが、これだけの群落は見たことがない。この山の石灰岩質の土とよほど相性が合うのだろう。

 「シカやイノシシが増えて新芽や球根を食べるようになり、全般的に花が少なくなってきましたが、イブキトリカブトはシカも敬遠するのか食害はありません」と西出さん。それでも根から掘り起こして持ち去る登山者もいるそうで、「霊仙のイブキトリカブトは霊仙にあってこそ映えるもの。土が違う他の場所に植えても育ちません」と西出さんは強調していた。

 根に毒があることから不気味さを感じる人も多いようだが、トリカブトの名自体、舞楽の楽人が着装する鳳凰の頭にかたどった冠の鳥兜に花の形が似ていることからつけられたもの。上から順に青紫色に染まっていく花の色は高貴にも見える。

  ◇泰澄開基の修験聖地、唐で活躍の霊仙三蔵が学ぶ

 
経塚山(きょうづかやま、1080m)を経て登り口から4時間ほどで三角点のある霊仙山の頂に着く。ここからは大きくカーブを描いた琵琶湖が西側に一望できる。山頂付近にはかつて霊仙寺があったと伝えられ、地元の「霊仙三蔵顕彰の会」の説明板が立てられている。霊仙寺は白山を開いた泰澄が奈良時代に開基し、修験の聖地として栄えたこと、この寺で学んだ霊仙三蔵が空海や最澄らとともに唐に渡ってお経の翻訳に加わるなど活躍したが、唐で亡くなったことが記されている。

 霊仙寺も霊仙三蔵も裏付ける遺物がないのは残念だが、なだらかな山容ながら深い谷に潜む滝や大岩、石灰岩の地形の中に季節ごとに開く花々、湖北の平野をはさんで伊吹山と相対する位置などを思うと、ここが山岳信仰の拠点となっても不自然ではないだろう。

 経塚山から西への尾根道はブナをはじめ落葉広葉樹が残り、黄葉にはまだ早いが樹林の間を快適に下れる。槫ケ畑(くれがはた)の廃村跡を通り、霊仙山から流れる宗谷川沿いの林道を歩いて醒ヶ井養鱒場に下りた。さまざまな花の舞台となる石灰岩の山は、里の人には生き物をはぐくむ最上の水をもたらしている。


                          (文・写真 小泉 清)

  
今も生きる最奥の村・榑ケ畑   2005.10.10取材


  [ 参考図書 ] 西尾寿一 「鈴鹿の山と谷1」 ナカニシヤ出版、1987


*9年後の再登* イブキトリカブトの群落消え、谷道は荒れて

 
前回より1週間ほど時期が遅れたが、また漆滝を見たいと同じ谷山谷ルートからの霊仙山頂を目指した。ところが、上丹生バス停を歩き始めたところから「谷山谷登山道 通行不可」の看板が次々と出ている。自治体が少しの不具合を過剰に反応するケースもあるため、様子見に進んだが、谷沿いの山道に入ると確かに路肩が崩れてえぐられている。「突破できないことはない」感じだったが、広くすすめられないと上丹生に戻った。むらの人の話では「おととし9月の豪雨で山が崩れ、集落まで岩が流れて来て危ないところでした。自己責任でと登るグループもいますが、防災工事は先で『通行不可』の解除は当面難しいでしょう」とのことだった。

 次善の策で榑ケ畑コースをとることにし、醒ヶ井養鱒場から車道を1時間以上歩いて榑ケ畑の集落跡の登山口に上がった。そこから樹林帯の中の山道にかかり、1時間ほどで高原状の稜線上に出て展望が開ける。石灰岩のカルスト地形が広がり、うっすらと色づき始めた山頂を眺めながらゆっくり登るのは快適だ。強風が吹き上げてくる中、さらに1時間で最高点に立った。

 谷道からの周回ルートを取れなかった不満はあったが、広々とした霊仙の魅力は堪能できた。ただ、9年前に稜線に広がっていたイブキトリカブトはどこに行ったのか。注意して歩いても花は3株くらいしか見当たらない。稜線の手前では外来種とされるベニバナボロギクが目立っていた。上丹生への帰り道で、ススキの穂を山に採りにきた地元の人に「今年は花が早めやったんでしょうか」と尋ねると「シカが急激に増え、イブキトリカブトを食べ尽くしてしまったんです」とのこと。2005年ごろには西出さんが言われていたとおり、まだトリカブトは敬遠されていたようだが、他の植物を食べ荒らしていったシカの猛威は留まるところがなかった。

 9年の歳月は重い。霊仙のことを尋ねると話が尽きなかった西出さんの消息を尋ねると、すでに亡くなられたとのことだった。「楽しい思い出になりますように!」と書いた西出さんの案内板は今も健在だけに残念だ。

 廃村となった榑ケ畑の跡を留める山小屋「かなや」は今も営業していた。この日は主は不在だったが、谷水で冷やした「手動販売機」にビールやジュースが用意されていたので活用した。下山後、9年前に榑ケ畑の話を聞いた川崎清一さん(83)を醒ケ井駅前に訪ねた。清一さんは高齢で引退していたが、子息のデザイン会社経営・川崎浩士さんが継いでいて「山小屋はこれからも続けていきたい」と語り、心強く感じた。

 谷の現況や、イブキトリカブトの壊滅した状況は悲しいが、霊仙の魅力がすべて失われたわけではない。シカの食害は全国の山に広がっている難問であるが、イブキトリカブトをはじめ本来の植生が戻ること、荒れた山や谷が回復することを願っている。