今も生きる最奥の村・榑ケ畑    =2005.10.10取材=                                               
 「体育の日」の10月10日、再び霊仙山に登った。頂上付近のイブキトリカブトの花は数少なくなっていたが、白いリュウノウギクが咲き始め、頂上から山道沿いの木々もわずかに色づいていた。

 今回は登り口、降り口とも榑ケ畑(くれがはた)という廃村。バスが通う醒井養鱒場から林道を1時間、米原側の最も奥の集落だった。かつて50戸、250人を超したという村の民家は朽ち果て、畑は樹林の中に埋もれ、苔むした石垣だけが跡を留めていた。その中で今も残っている家が山小屋の「かなや」。昼下がりに山から下りると、山小屋を営む川崎清一さん(74)が「お疲れさん」と声をかけてくれた。

 川崎さんは榑ケ畑で生まれ育った最後の世代だ。「春には山菜が採れ、秋には自生のクリの木にいっぱい実がなりました。昔は雪が多くて12月から3月の末まで雪に埋もれていましたが、涼しい気候でゴボウや大根の味が良く、これをビン坂峠を越えて米原の町に運んで魚などと交換していました。雑木の森林のほとんどは家ごとに分けて管理してマキにしたり炭に焼いたりしていました」と山と里の豊かな恵みを生かしていた暮らしを振り返る。村には酒屋も郵便局もあったという。

 榑ケ畑の人にとって霊仙山で特に大切だった場所は、ドリーネという石灰岩が侵食されたくぼ地に水がたまった「お虎が池」。琵琶湖の形をしたこの池は涸れることがなく、雨が降らずに困った時は若者が山に上がって雨乞い踊りをしたという。「私がふだん山に上がる時も、父に言われて竹筒にお神酒を入れて持って行き供えていました」。

 稜線に揺れるススキの穂も、村の暮らしになくてはならないものだった。「10月になると朝に上がって刈り取り、かやぶきの屋根に使いました。今はクマザサに変わってしまったところも昔は一面にススキの穂が広がり、花ももっと多くて素晴らしい眺めでした」。

 しかし、暮らしを支えていた薪炭の需要が減るなどで村だけでの生活が難しくなってきた。川崎さんの家でも山東町の方に田畑を作りに行くようになるなど、二重生活、三重生活の家が増えて、だんだん村を去り1960年ごろには住民がいなくなったという。

 今はJR醒ヶ井駅前で商店を営む川崎さんをはじめほとんどの人が町中に移ったが、村のつながりが完全に消えたわけではない。今でも5月の八坂神社の春祭りには榑ケ畑の旧住民や子孫が集まり、回り持ちで勤める神主は1年間肉類を絶つなど厳しい慣わしを保っている。榑ケ畑管理組合という組織もあって村の精神的、物質的な絆が保たれている。先祖は平家の落人だったという言い伝えもあり、彦根藩のもとでも庄屋の川崎さん方も両刀を受け継いできた。「家に入る時のあいさつでも『許してください』いうような武家流の言い方がここだけにありました」。古くからの誇りが今も人々を結びつけているのだろう。

 山小屋の「かなや」は山仕事が減ってきた50年前に母のかなさんが建て、現在は川崎さんが土・日・祝日に来て開いている。夏や秋は日帰りの登山者がほとんどなので休息の場に使われ、雪が深く厳しい冬はこの小屋に泊まり天候を見極めて行動する登山者も多い。「山に登る人も増えており、生まれ育った地で受け継いだ山小屋を伝えていきたい」と川崎さん。榑ケ畑の村は今も生きている
                                                          (文・写真 小泉 清)

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