★ 千葉大空襲の悲しみ胸に留学生里親活動始める 千葉市、大阪府豊中市 ![]() |
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![]() ◇東京大空襲、焼け焦げたコートで父帰宅 辻村さんは1932年(昭和7年)東京・深川に生まれた。体が弱かったので「暖かいところで転地療養を」と医師のすすめで房総半島の千葉県勝浦市に。元気になったので、国民学校入学を前に千葉市に移った。 太平洋戦争が始まったのは4年の時。「隣組で出征兵士を見送り、シンガポール陥落の時は町内で提灯行列をしました。教室には大きな世界地図が張られていて、『ここが陥落』と聞くと、地図をどんどん赤く塗っていきました」。 しかし、昭和18年になって6年生に上がり日本が攻められる側になると、地図は黒く塗り直されていった。 昭和20年に入ると首都圏での本格的な空襲が続いた。3月10日は東京が大空襲。水産庁に勤めていた父はこの日当直勤務だったので辻村さんは最終電車まで兄と駅の改札口で待っていた。「目が真っ赤で、コートが焦げてボロボロになった惨澹たる格好の男の人が下りてきました。その人が父でした。『周りは火だらけ、服にもえうつった火を払いながら逃げた』と言っていました」。 ◇肥だめの麦わらに隠れ米軍機逃れる 辻村さんは4月に千葉高等女学校に進学。音楽室がスロープになっていて、「こんなところで勉強できるのか」と驚くほど素敵な学校だった。しかし、このころから千葉にもB29が襲来、警戒警報が発令されるようになった。発令時は帰校させられるので、辻村さんは3歳下の弟と待ち合わせ弟を連れて下校した。 自宅まで電車で二駅だったが、電車は運休。「線路沿いの道を歩くと危ないので畑を通って帰ろうと走っていると、キーンという金属音。向こうから米軍機がこっちに飛んで来るんです。畑の中なので隠れる場所がないので、弟をせかして肥だめの麦わらの下にじっとしていました。家に帰るとすぐ風呂屋に行って汚れを落としました」(家で風呂を炊くことは禁じられていた)。 ◇防空壕直撃、母と姉妹の6人喪った級友 そして6月10日朝、千葉市が大空襲を受けた。「畑の中を通って女学校に登校しましたが、大きな建物が三つ残っているだけで千葉駅まで全部焼け野原でした」。女学校の建物はほとんど焼失した。先輩から「校長先生にお祈りをしてください」という悲しい知らせがあった。学校に向かう途中の校長先生は爆弾で頭部を吹き飛ばされ即死。遺体が焼け残った同窓会館に安置され、生徒たちが別れを告げた。 「校庭で級友の輪の中に、ひとり小さくなっているももよちゃんがいました。大きなお寺の子で、お母さんと姉妹の7人で防空壕に入っていました。妹が『のどがかわいた』訴えるので、ももよちゃんが水を汲みに行った時に焼夷弾が防空壕を直撃したと聞きました。あんな楽しい一家だったのに、一瞬でたったひとりになったももよちゃんがかわいそうでなりませんでした」。 ◇広い舞台で活躍、「日本のママ」と交流ずっと 辻村さんは戦後新制高校を卒業し、「自分の着るものは自分で縫いたい」と洋裁の道に進んだ。ももよちゃんとは離れてもずっと手紙や電話でやりとりを続け、「あの時のももよちゃんのようなつらい思いをする人を出してはいけない。戦争はしないという運動を続けよう」という思いを貫いてきた。 結婚で大阪に転居してから洋裁教室を開く一方、義姉が活動していた東京YWCAの要請で1966年、関西での「留学生里親」を仲間13人で始めた。京大や阪大の留学生を自分の家族のように面倒を見た。 その後、大阪商工会議所国際部から協力の要請があった。駐マレーシア大使の須磨未千秋氏が大学を訪ねた時「優秀な学生を日本に留学させるので里親をつけてほしい」と頼まれ、帰任後に大阪商工会議所に留学生里親事業を提唱していた。辻村さんらは1978年から2002年まで大商と連携して活動。その後も「希望の会」として地区ごとに動いて、コロナ禍で2020年に休止となるまで54年間続けた。 里親となった留学生の多くは、帰国後に学校をいくつも設立したり、最先端の医学研究で世界的な業績をあげるなど活躍。大学生になった子供を連れて来訪するなど「日本のママ」との交流は続いている。 「全部焼けてなくなったのに、万博(1970年)までの短い期間にあれだけ努力して立派になった日本を見ならおうと、みんなで来ました」「こんなにいい、ママのいる日本と戦争に向かうなら殺されても反対します」。辻村さんにとって忘れられない留学生の言葉だ。 「日本人がどこにいっても、外国の人が日本に来ても、仲良くみんなでやっていけますように。戦争は絶対しないと、小さい力でもできることは何でもします」と力を込めた。 =2025年3月5日取材 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ |