自転車で風感じる江田島 広島県江田島市      

・時期 通年

・交通
広島港(宇品港)からフェリー、呉港からフェリー、高速船
・電話  江田島観光協会(0823-42-4871
江田島市交流観光課(0823-43-1644)
    =2024年11月19日取材

原爆投下の直後、この突堤から暁部隊が広島市へ救援に向かった
 
 
   「人生下り坂最高」の名言に共感していた火野正平さんが2024年11月14日に亡くなった。その追悼というわけではないが、11月19日、サイクルアイランド・広島県の江田島(えたじま)のごく一部を自転車で周った。

興隆から終局…旧日本軍の軌跡たどる
 
 広島港(宇品)からフェリーで30分、9時過ぎに島北東の切串港に着いた。結構高い山が海に迫って連なっている=写真。海上自衛官から転身、10月にレンタル業を始めたばかりの店主さんが運んで来てくれた電動アシスト自転車でいざ出発。小学校もある広い集落をざっと周った後、海沿いの「かきしま海道サイクリングロード」を西へ向かった。

◇暁部隊が爆心地に急行した突堤残る
 
  3キロほど進むと入江となった幸ノ浦。海上艇進戦隊戦没者慰霊碑碑=写真=が建てられている。顕彰碑などによると、ここは宇品に本拠があった陸軍船舶部の訓練基地。大戦末期、ベニヤ板製モーターボートに爆薬を摘んだ特攻艇㋹を開発、全国から集めた少年兵を訓練した場所だ。フィリピンに送られた隊員ら1636人が戦死、原爆が投下された直後は対岸の広島市に㋹で急行、被爆者の救護に当たった事実には驚く。
 
 この船艇が発着した石積みの突堤が残っていた。暁部隊の通名で知られる陸軍船舶部の活動は最近になって光が当てられてきたが、ここはその歴史を伝える数少ない遺構だ。
 
 間もなく北西端の大須の集落。20年前にフェリーの発着が休止となり波止場は寂れているが、広場に赤レンガ風の瀟洒な建物=写真。隣の墓地で花を供えていた女性に尋ねると「消防団の車庫です。いま広場のトイレを掃除したばかりなので使ってください」と言われたので、ありがたく使わせてもらった。少し過ぎると素晴らしい眺望スポット。カキの養殖筏が浮かぶ内湾の向こうに、厳島の弥山から能美島の三高山までが連なっている=写真右中。
 
◇旧海軍学校兵学校の栄光の中に
 

  西海岸を南下、青少年交流の家の手前で海岸線を離れて東に入り、海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)=写真=の正門へ到着。見学コースに乗って、旧海軍の軌跡を1時間半案内してもらった。

 帝大生をしのぐ当時最高級の資質を持った幹部候補生が、国際性も含む幅広い教育を受けたとの説明、実際その通りだったのだろう。しかし、こうして育成されたはずの将官たちがなぜ客観的には勝ち目のない開戦を主導したのか、また1944年7月のサイパン陥落で敗戦必至とわかりながら戦争を続けて犠牲者を積み上げたのか…。疑問は解消できない。
 
 教育参考館で日露戦争でロシアのバルチック艦隊を壊滅した連合艦隊の東郷平八郎司令長官の遺髪も見せてもらった。部下をよく統率し、的確な状況判断で世界史に影響を与えた偉業を改めて心に留めた。その一方で、この時の成功体験が太平洋戦争開戦時の判断の目を曇らせたのではとも感じた。
 
◇図書館に浜田省吾さんゆかりのバス停
 
  見学終了後、江田島で9~13歳の少年時代を過ごしたシンガーソングライター浜田省吾さんゆかりのバス停=写真=がある江田島市立図書館に立ち寄った。当時走っていた呉市営バスの山田停留所が建物ごと中庭に復元保存されている。全国のファンが寄贈した浜田さんに関するポスターや図書を集めたコーナーもある。

 浜田さんは広島県竹原市生まれだが、警察官の父親の転勤で県内を移り住み、江田島の小学校に通っていたという。

 走った道は江田島町全体の中のほんの一部。まだまだ周りたい思いは残るが、日が暮れてきたので東海岸の小用港に急ぎ、港に来てくれた店主さんに自転車を返却。高速船で呉港に渡った。    (文・写真  小泉 清)


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