原爆投下、即時救護に出動 暁部隊 広島市 | ||||||||||
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迷走を続けた台風10号の動きをにらみながら8月29日、広島市内を周った。2019年にリニューアルされた広島市平和記念資料館に続き、近くの国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に入館。開催中の「暁部隊 劫火へ向カヘリ―特攻少年兵たちのヒロシマ」=写真=に衝撃を受た。 特攻艇で爆心地に向かった少年兵も暁部隊は広島・宇品港を拠点に戦地への兵員・物資の輸送を一手に担った陸軍船舶司令部の通称。戦争末期にはベニヤ板製ボートの特攻兵器㋹(マルレ)を開発、15~20歳の少年志願兵を陸軍 迷走を続けた台風10号の動きをにらみながら8月29日、広島市内を周った。2019年にリニューアルされた広島市平和記念資料館に続き、近くの国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に入館。開催中の「暁部隊 劫火へ向カヘリ―特攻少年兵たちのヒロシマ」=写真=に衝撃を受た。特別幹部候補生として全国から集めフィリピン方面に出撃、本土決戦に向け江田島で訓練していた。企画展では、広島への原爆投下直後、佐伯文郎司令官の速断で全隊挙げて広島市街に救護に向かった暁部隊の中でも特攻少年兵に着目。9人の証言ビデオや直筆手記、現場を直視した絵などで、救出・看護、遺体処理の生々しい実態を紹介している。部隊兵は負傷者を宇品や似島に次々運んで収容し、救護に当たったが命を取りとめた人は限られ、多くの人は遺体として急いで処理しなければならなかったという。奈良県出身の元少年兵は「爆死した子どもを抱えた母親に『国元の奈良に帰りたいんです』と懇願され、『遺体のままでは汽車に乗れない』と上官に頼み、河原で火葬してお骨を渡しました」と回想していた。 ㋹の実物大レプリカも展示=写真。長さ5.6m、幅1.8mで思ったより大きく見える。特攻兵器としては非力であっても、原爆で陸路が遮断された中、威力を発揮したのかと推察した。ただ、このようにして爆心地近くで活動した隊員の多くが原爆症で苦しんだことは見過ごせない。天候のこともあってか入館者の大半は外国人で、展示に見入っていた。 ◇兵員・物資輸送の要・宇品港、日清戦争から軍都支える この後、広島電鉄の路面電車(広電)=写真=で宇品港方面に向かった。まず宇品2丁目で下りて広島市郷土資料館へ。宇品陸軍糧秣支廠のレンガ建築を生かした施設。学芸員さんの話では、広範囲からの食品の調達・貯蔵のほか牛肉缶詰も製造していたそうだ。宇品港とは少し離れているが、糧秣支廠の倉庫は海岸沿いにあったそうだ。 再び広電で海岸通まで行き、宇品海岸沿いのプロムナードを東へ歩いた=写真。西側には広島サミット会場となった宇品島、東側には船舶司令部の船艇工場があった金輪島が見える。陸軍桟橋跡周辺に設けられた桟橋公園には、被服支廠、兵器支廠を通って広島駅につながっていた宇品線の起点・宇品駅のレールの一部が残されている。日清戦争の起こった1894年に突貫工事で敷設された軍事鉄路が始まり。戦後も港からの輸送ルートとして存続した宇品線。1986年に廃線となったが、軍都・広島の歩みを語る重要な遺構だ。 陸軍運輸部船舶司令部があったことを示す碑は、公園から道路を渡った緑地にひっそりたたずんでいた。出征将兵の歓送迎のため昭和14年完成した「宇品凱旋館」の建設記念碑も。開戦を前に日本の海上輸送能力の問題点を厳しく具申した当時の司令官・田尻昌次中将の筆によるものだ。 ◇保存活用へ耐震補強工事始まる被服支廠 宇品駅跡からほぼ真っすぐ北へ進むと被服支廠のレンガ倉庫群=写真。残った4棟の一部が取り壊される予定だったが、保存運動で2019年に国重文として保存が決定。10月に耐震補強工事が始まるという。残ったレンガ倉庫だけでも思っていたよりずっと長く高い。軍服だけでなく、軍靴、軍帽や飯盒など多種な軍事用品を生産していた被服支廠の規模には驚く。 原爆の被害を受けた戦後も倉庫として活用され、一角は広島大学教育学部の寮として使われていた。1975年ごろ広島にいた家人は、この寮にいた友人を何度か訪ねたそうだが、どのあたりだったかはわからないという。 日清戦争に始まる軍都・広島が、子爆弾で一瞬に破壊されたことに慄然とする。この劫火の中で被爆者救護という最後の戦いに飛び込んだ部隊の兵士がいたことは記憶したい。 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ 【参考図書】 堀川恵子 「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」講談社、2021 |