津波の爪跡そのまま今に 震災遺構・伝承館 宮城県気仙沼市   

・時期 原則、毎月曜日、年末年始が休館日
・交通 車では三陸沿岸道路を大谷海岸ICを下り北へ10分。JR大船渡駅気仙沼駅からBRTで陸前階上駅下車、徒歩20分

・電話
 
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(0226・28・9671)、気仙沼市観光協会(0226・22・4560)
    =2023年8月30日取材

国道から津波で流され、旧気仙沼高校南校舎3階の壁を破って飛び込んだ乗用車。語り部ガイドの佐藤健一さんが津波の破壊力を説明
 
 
 
 東日本大震災で1355人もの死者・不明者を出した宮城県気仙沼市の大震災遺構・伝承館を8月30日に訪ねた。海岸から200m、津波に襲われた気仙沼向洋高校の旧校舎をそのまま残し、津波の破壊力を今に伝えている。

破壊力まざまざ 校舎突き破る車や幹

  「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」は、震災から8年の2019年3月に開館。その前年に気仙沼魚市場を見に行った際、観光協会の職員から「津波の被害をそのまま伝える施設ができるので、ぜひ見に来てください」とすすめられ、着目していた。

  震災当時、市の危機管理課長だった佐藤健一さん(70)に語り部ガイドとして説明いただいた。海側の南校舎1階から巡回。CAD(コンピューター支援設計)室の機器はすべて流され、スチール棚などが散乱している。「ただ、窓に筋交いがつけられた部屋は、ない部屋に比べ天井部分の金具が残っています。防潮堤だけでは津波は防ぎきれず、建物の構造や配置が対策として重要なことがわかります」。

 3階では、200m南の国道から津波に運ばれ、壁を突き破って飛び込んできた乗用車や、防潮林の松の幹=写真=には息を呑む。白砂青松の優雅な松も、津波に押し流されると、命を脅かす凶器になることが実感できる。

 4階には下半分が錆びた書類入れが見られ、津波が床上25cmまで浸水していたことがわかる=写真。4階西側角には、流されてきた冷凍工場がぶつかって崩れた跡=写真=ができ、室内にはスポンジ様の断熱材や加工前の魚がミイラ化して散乱していた。

 「津波といっても重い土石流のようなもの、海水の1.3倍の比重があります。その分、そう深くない水量でも家や人を浮かせやすく、想像できない強い破壊力を持つんです」と佐藤さん。軽い断熱材を多く含む冷凍工場が流されてきたのもうなづける。

◇高校生すぐ避難、教員らは翌朝脱出し全員無事

  屋上から周囲を眺めた。当時校内にいた1、2年生の生徒170人は、3分後に地震動がおさまると、教員27人の誘導でその場から学校を出て近くの寺に避難。明治三陸地震(1896年)で日赤救護所になった寺だったが、生徒たちはスマホで情報を収集して「ここではまだ危ない」と陸前階上駅、さらに階上中学に避難。そこで中学生と協力して避難所設営に当たったそうだ。「海について学ぶ機会が多い高校だったことで、津波が起きた時も素早く反応できたのでしょう」。

 2日前に行なわれた入試の答案用紙を退避させるため残った教員20人と、耐震工事で来ていた作業員25人は屋上に避難。家ごと同高まで流されてきた住民2人とともに翌朝流れてきたボートで脱出、全員無事だった。佐藤さんは「校内にいた人が一人でも犠牲になっていれば、この校舎を遺構・伝承館として残せなかったでしょう」と話す。

 ◇避難場所指定の高台、60人が犠牲に

  一方、高校から海寄りの波止上 杉ノ下地区。ここには海抜13mの高台があり、明治三陸地震の時も、ここには津波が達しなかったと地元で言われてきた。佐藤さんは2003年から地区ごとに住民と防災マップづくりのワークショップを開催。「想定したマグニチュード8・0の宮城県地震・連動型での津波の高さは、シミュレーションで7mとしていました。最も熱心だった杉ノ下地区の人々との話し合いでは、この高台なら大丈夫と一時避難高台に指定しました」。

 しかし、東日本大震災では高さ13mを超す津波が襲い、高台に避難していた60人が亡くなった。地区全体の犠牲者は93人で住民312人の3割にも。「津波防災に一番熱心だった地区が、気仙沼市でも犠牲が一番大きい地区になってしまった」という厳しい現実だった。

◇「災害に上限を設けてはならない」

 震災の翌年、高さ19mに土盛りされこの高台に「杉ノ下遺族会」が慰霊碑を建てた。今回はその高台まで訪れることはできなかったが、屋上から南西1キロの高台を望むとともに、碑文を記した屋上の説明板を読んだ。「あなたを忘れない」の思いを込めたメッセージ。そして、「この悲劇を繰り返すな 大地が揺れたらすぐ逃げろ より遠くへ・・・より高台へ…」という遺族の呼びかけは重い。

 海洋土木を学んで港町・気仙沼市で漁港建設に携わり、防災部門に転じた佐藤さん。伝承館の二代目館長を2022年3月に退いた後も、「これまで語り切れなかったことも語り続けていきたい」と語り部ガイドを続けている。

 杉ノ下地区の高台についての説明で「ここを市が一時避難高台として指定した時の防災の責任者は私です」と明言した佐藤さん。自らの体験を重ねながら、「これまではどうだったという見方では、津波は防げません。災害に上限を設けてはなりません」と言葉に力を込めた。 (文・写真 小泉 清)
 
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