王仁博士通じ交流 受け継がれる吉留さんの志   澤田作哉さん自画像    
 
  百済から先進文化を伝えた王仁博士の墓と伝えられる王仁塚(大阪府枚方市)。その近くにある吉留一夫さんの自宅兼スタジオで、2023年5月4日〜7日の連休期間中、小さな展示会=写真=が開かれた。王仁塚の保全に力を尽くし、1年前の5月5日に87歳で逝去した吉留さんの生涯を写真でたどり、作品の一部が仕事場に展示されている。実家に残された大量の写真に驚いた長女の慶子さんらが「父と知り合いの皆さんにまず見てもらいたい」と一周忌を機に公開したものだ。 

◇ 思うままに写真撮り続けた人生
 
  「人生は写真とともに」と題されたコーナーを見て、これまで伺っていなかった吉留さんの足跡を知った。1934年(昭和9年)に大阪市西区で生まれた吉留さんは10歳で大阪大空襲に遭い島根県に集団疎開。大阪府立工芸高卒後、会社勤めをしながら休日は写真撮影で全国を回り、腕を磨いた。44歳で枚方市に転居、王仁塚を守り育てる活動を進める一方、10年後には写真スタジオを設立した。

 展示作品のメインは、若いころ吉留さんが情熱を傾けた鉄道写真。長男の英雄さんを車に乗せて各地の鉄路を巡った。モノクロ写真ならではの鉄道の姿がとらえられている。大阪城をバックに走る城東貨物線の蒸気機関車の懐かしい写真もある。近くを通る片町線(学研都市線)の歩みを伝える旧国鉄時代の長尾駅や河内磐船駅の駅舎の写真は貴重だ。

 博多祇園花笠に魅せられ、博多人形作家のもとに通い詰めた時期も。写真スタジオでは、社交ダンス・フラメンコの撮影を手がけた。起伏ある人生と多彩な作品を見て、いろんな経験を積み重ねられたからこそ、王仁塚の意味にいち早く気づき、韓国側の関係者をはじめ幅広い人々の信頼を得てきたのかと感じた。

 81歳だった2015年秋、吉留さんは「すい臓がんで余命2年」の宣告を受けた。翌年4月に全羅南道霊岩郡の王仁博士祭に参加、「最後の訪韓」と決めて初めて慶子さんと孫を伴い、多くの人と交歓した=写真、家族提供。「王仁塚の環境を守る会」の会長は退いたが、事務総長として相談にのり、毎月の例会は「会に出た方が元気が出る」と最後まで出席した。

 ◇韓国の新記念館にコーナー設置へ

 ただ、写真展には、王仁塚やムクゲに関した作品が見られない。慶子さんに尋ねると、「韓国の霊岩郡で王仁博士記念館の建設が計画されていて、そこに『吉留コーナー』が設けられるそうです。『王仁塚の環境を守る会』を通じて写真を提供しました」とのことだった。

 「守る会」の古澤明久会長に後日尋ねると、この4月に霊岩郡の王仁博士祭が再開され、古澤さんらが4年ぶりに訪問。吉留さんの作品を先方の王仁顕彰協会に手渡した。

   帰国後ほどなく、霊岩郡から大阪府教育庁を通して連絡があった。同郡の6中学が修学旅行で来日、5月20日をはじめ3日に分かれて王仁塚を訪れるという。ムクゲの花はまだ先だが、緑鮮やかな王仁塚=写真=は韓国の中学生に印象を与えるだろう。「これだけの規模で韓国の児童・生徒が来るのは初めてで、案内や説明の準備を急ぎます」と古澤さんは話していた。

 2016年春に霊岩郡の名誉郡民となった吉留さん。これからも王仁博士を通した交流の広がりを見守っていくことだろう。      =2023年5月4日取材 (小泉 清)
  

     
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