関東の親鸞想う西念寺 茨城県笠間市   

・時期 四季を通じて参拝できる。9:00〜16:00開門
・交通 JR水戸線稲田駅から北へ徒歩15分。同笠間駅からレンタサイクルで30分

・電話
 
西念寺(0296-74-2042)
笠間市観光協会(0296-72-9222)
    =2023年2月25日取材

趣のある茅葺きの山門
浄土真宗別格本山の碑が建つ。戦後お東さん=真宗大谷派=を離れ、単立寺院となった
 

 
 
  今年(2023年)は親鸞聖人の誕生から850年、来年には浄土真宗を開いて800年。ということもあって、訪問先のつくば市から足を延ばし、親鸞が関東時代の拠点として「教行信証」を著わした西念寺(茨城県笠間市稲田)を参拝した。

 分けへだてなくすくう 教えを綴り伝えた地 

   茨城県は公共交通がちょっと不便。車、路線バス、常磐線、水戸線を乗り継ぎ2時間かけ笠間駅着。駅前で自転車を借り稲田に向かった。20分ほど西に漕ぐと国道沿いに「稲田御坊」の目印があり、駐車場に停車。ちょうど車から3人が下り「神戸から参拝に来ました」。40年前の駆け出し時代の持ち場だった神戸市灘区のお西さん(浄土真宗本願寺派)の寺の住職さんご一家で、茨城空港からレンタカーを駆って来たとのことだった。

 これもご縁と一緒に長い参道を進んだ。室町時代の建立という茅葺きの山門を抜け、本堂に=写真右。住職さんが前もってお願いしていたことから、西念寺の世話役の衆徒さんに説明いただいた。

◇恵信尼像に女性の願い託し
 
 越後に流され、赦免を経て関東に来た親鸞が、なぜ15年もの間、この地に草庵を結んだのか。「今は辺鄙に見えても、当時、稲田は交通の要地で賑やかなところでした。下野国の有力な豪族・宇都宮氏が聖人を招請、聖人にとっても近くに稲田神社があることで、仏典の研究には便利だったのでしょう」。

 本堂には、本尊の阿弥陀如来像と親鸞聖人木像と並び親鸞の妻として関東時代をともに過ごした恵信尼の木像があった。親鸞聖人は九条兼実の娘だった玉日姫と結婚したという話もあって、稲田では玉日姫がこの地で亡くなったという言い伝えられてきた。1921年(大正10年)晩年の書簡が見つかり実在が明確になった恵信尼と、玉日姫の関係ははっきりしない。衆徒さんは「女性がすくいの対象とされなかったり差別されてきた時代に、恵信尼さまも玉日姫も一体として、人々が願いを託してきたのでしょう」と話されており、これには得心した。

京へ戻る道 別れ惜しむ「見返り橋」

  60歳になって京に向かう親鸞が草庵を振り返ったと伝えられる「見返り橋」=写真左。少しわかりにくかったが、神戸の住職さん一家と探して、寺から西へ200mほど離れた田の中に見つけた。西念寺からは四方に道が続いており、親鸞は当時の旧道を通って東国布教を進めていったのだろう。親鸞が京に戻った理由についてはいろいろ推測されているが、門弟をはじめさまざまな人に慕われた東国を離れるに当たって何度も別れを惜しんだことは疑いないだろう。

 住職さん一家は、聖人ゆかりの茨城の2寺をさらに車で巡ると出発された。危害を加えようとした山伏・弁円と出逢った大覚寺(石岡市)、回心して明法坊となり開いた上宮寺(那珂市)という。

 私は西念寺に戻り広い山内を回った。本堂右手の坂を上がるとと、親鸞の遺骨を納めたとされる御頂骨堂、親鸞が深く崇敬した自ら彫った聖徳太子の像が安置されている太子堂が建つ。「(親鸞聖人が)前方の吾国山(わがくにさん)に比叡山を思い起こし、京の六角堂の救世菩薩の夢のお告げが真実であったことを慶ばれた」と記した「六角堂ご夢想の山」の説明板もある。後からの話も含まれるだろうが、この地で「教行信証」としてまとめられた親鸞聖人の教えをたどることができる。

 ◇天明飢饉後の復興に北陸門徒の移民

 自転車で冬の田畑を抜けて稲田神社、稲田駅と近辺を周った。関東平野が広がり農業大国の茨城県だが、歴史を通して何度も飢饉が起きていた。親鸞が東国で飢饉に苦しむ民衆に直面して、自力と他力のすくいの問題に悩んだことはよく知られている。

 時代は下り、江戸中期の天明の飢饉では、稲田で多くの農民が餓死したり逃散して人口が激減、当時の西念寺住職・良水は復興を目指す笠間藩の要請を受け、真宗門徒の多い北陸に赴いて移民を連れてきた。その後、加賀藩との間で問題が起き住職が責任を一身に負っ自決するという悲劇もあった。「今の西念寺の門徒の多くは、この時に北陸から移ってきた人々の子孫です」と衆徒さんも話していた。

 ◇講で守り伝えてきた玉日姫の墓

 西念寺の1キロ南西にある玉日廟=写真右=に詣でた。長い参道を進むと簡素なお堂が建てられている。「稲田の里の幾春秋 親鸞さまのみ教えを 末の世までも掲げんと 灯し続けるおこころを…」と玉日姫を称えた「玉日さま」の歌詞が掲げられている。平日の昼過ぎで人はいなかったが、清掃用具が置かれており、地元も門徒を中心とした「玉日講」がずっと世話を続けているようだ。

 歴史の正確な事実関係は別として、歌に込められた人々の気持ちは真実であり続けてきたのだろう。親鸞の「摂取不捨」の教えがこの地で確かなものとなり、隔てなく伝えられてきたことを体感した。      (文・写真  小泉 清)

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