津波忘れず 田老の遺構で「学ぶ防災」 岩手県宮古市 ![]() |
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![]() 防潮堤過信せず「てんでんこ」確かめる![]() 内寄りの第一防潮堤の上に立った=写真。高さ10m、上の幅3m。海側には東日本大震災の引き波で破壊された第二防潮堤跡、震災後建設された新防潮堤。高さ14・7mで海は見えない。内陸側のすぐ手前には野球場があるが、震災前はここが田老の中心市街地だった。 ![]() 「昭和大津波の後、高台に逃げやすいよう碁盤の目のように道路を配置、隅切りしていました。『津波てんでんこ』で各自バラバラで山に逃げても、合流できるような山道も整備していました」と佐々木さんが説明した。当時の関口松太郎村長が、関東大震災からの復興プランに当たった技師を東京から招いて、最新の防災対策を練ったという。 ◇壁ぶち抜かれたホテルそのまま保存 続いて、津波の直撃を受けた「たろう観光ホテル」に。3階までの壁がぶちぬかれ、エレベーターがねじれている姿が遺構としてそのまま保存されている。3..11前に松本勇毅社長が貼った「地震の揺れぐあいはそれほどでもないのに、津波が押し寄せることがあります」と迅速な避難をよびかける.注意書きも残っていた。 チェックイン前の時間帯で従業員もすぐ避難したが、松本社長は6階で津波が襲う瞬間の街の様子をビデオ撮影。その映像や、高台から消防団員が撮った場面を放映している。緊迫の場で津波の実相を伝えようとした意志の強さに驚いた。 ◇「前は大丈夫」「みんな残ってる」で逃げ遅れ ![]() ◇「地域知り、いざという時に命守ろう」 高校生の時、冬季は田老に下宿していた佐々木さん。震災当時は宮古市内の別の地区でリース会社の営業に出ており、地震で海寄りの事務所まで戻って上司・同僚と合流した直後に津波に巻き込まれそうになった。「仕事がいつもより早めに終わり、車をバックで入れていたので、ぎりぎり避難できました。助かったのはたまたまで、避難の遅れが死につながることを思い知りました」。 震災で仕事を失って1年。以前バスガイドをしていた経験もあり、2012年始まった「学ぶ防災」のガイドに参加しないかと声をかけられた。「人の命を話すことは無理」と悩み、海を見るのも怖かったが、「伝えたい」という思いで続けてきた。田老を歩き、人々の話を聞き、最近防災士の資格も取った。「子どもたちも地域を知り、いざという時どう命を守るかを考えてほしい」という熱い気持ちを受け、1時間を超えて密度の高い学びを終えた。 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ |