津波忘れず 田老の遺構で「学ぶ防災」 岩手県宮古市 | ||||||||||
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8月23〜26日、岩手県の三陸沿岸を4年ぶりに周った。東日本大震災の津波が大防潮堤を破壊し、181人が死亡・不明となった宮古市の田老地区を初めて訪問。被災地で数少ない震災遺構を生かし、「学ぶ防災」ツァーを行なっている。自身も宮古市で津波から逃れたガイドさんと防潮堤やホテル跡を巡り、災害への心構えを新たにした。 防潮堤過信せず「てんでんこ」確かめる「道の駅たろう」に着くとガイドの佐々木純子さんが待機。津波の脅威を示すポイントを車で案内してもらう。漁港の製氷施設の壁には明治、昭和、平成の津波の最高地点を表示している=写真。明治29年(1896)は15m、昭和8年(1933)は10m、そして平成23年(2011)が17.3m。人口5000人のうち911人が犠牲になった昭和三陸津波のあと防潮堤の整備が進み、内寄りと海寄り合わせて総延長は2・4キロに達し、「万里の長城」と呼ばれていた。内寄りの第一防潮堤の上に立った=写真。高さ10m、上の幅3m。海側には東日本大震災の引き波で破壊された第二防潮堤跡、震災後建設された新防潮堤。高さ14・7mで海は見えない。内陸側のすぐ手前には野球場があるが、震災前はここが田老の中心市街地だった。 「昭和大津波の後、高台に逃げやすいよう碁盤の目のように道路を配置、隅切りしていました。『津波てんでんこ』で各自バラバラで山に逃げても、合流できるような山道も整備していました」と佐々木さんが説明した。当時の関口松太郎村長が、関東大震災からの復興プランに当たった技師を東京から招いて、最新の防災対策を練ったという。 ◇壁ぶち抜かれたホテルそのまま保存 続いて、津波の直撃を受けた「たろう観光ホテル」に。3階までの壁がぶちぬかれ、エレベーターがねじれている姿が遺構としてそのまま保存されている。3..11前に松本勇毅社長が貼った「地震の揺れぐあいはそれほどでもないのに、津波が押し寄せることがあります」と迅速な避難をよびかける.注意書きも残っていた。 チェックイン前の時間帯で従業員もすぐ避難したが、松本社長は6階で津波が襲う瞬間の街の様子をビデオ撮影。その映像や、高台から消防団員が撮った場面を放映している。緊迫の場で津波の実相を伝えようとした意志の強さに驚いた。 ◇「前は大丈夫」「みんな残ってる」で逃げ遅れ 昭和三陸大津波の後、防潮堤、避難路を整備するなど進んだ対策をとってきたのに、なぜ200人近い人が津波にのまれたのか。ホテル裏から上がる避難路=写真=を示し、佐々木さんは「1960年のチリ津波で被害が出なかったことで、『日本一の防潮堤があるから大丈夫』という過信が生まれていました」という.。さらに前々日の3月9日の地震で津波が小さかった影響も。「11日の地震で避難を始めても、引き返したり、友達に声をかけられて家に立ち寄って逃げ遅れた人もいました」と難しい現実を語った。 ◇「地域知り、いざという時に命守ろう」 高校生の時、冬季は田老に下宿していた佐々木さん。震災当時は宮古市内の別の地区でリース会社の営業に出ており、地震で海寄りの事務所まで戻って上司・同僚と合流した直後に津波に巻き込まれそうになった。「仕事がいつもより早めに終わり、車をバックで入れていたので、ぎりぎり避難できました。助かったのはたまたまで、避難の遅れが死につながることを思い知りました」。 震災で仕事を失って1年。以前バスガイドをしていた経験もあり、2012年始まった「学ぶ防災」のガイドに参加しないかと声をかけられた。「人の命を話すことは無理」と悩み、海を見るのも怖かったが、「伝えたい」という思いで続けてきた。田老を歩き、人々の話を聞き、最近防災士の資格も取った。「子どもたちも地域を知り、いざという時どう命を守るかを考えてほしい」という熱い気持ちを受け、1時間を超えて密度の高い学びを終えた。 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ |