★豊中空襲の記憶の絵 公園の説明板に 大阪府豊中市 | |||||
大阪府豊中市に米爆撃機B29が飛来、大空襲を受けたのは終戦間近の1945年6月7日。それから77年後の6月7日、玉井町2丁目第二公園で「玉井町への空襲を忘れない」説明板が除幕された。当時9歳だった澤田作哉さんが、空襲の記憶を後年描いた水彩画2枚を載せている。 ◇爆弾投下による穴、焼夷弾で焼ける自宅も 阪急豊中駅西側の玉井町地区は、昭和初めから大阪市の郊外住宅化が進み、社宅も多数建てられた。6月7日の空襲には地区内だけで39人が亡くなったとされ、15日の焼夷弾攻撃でも犠牲者が出た。 戦後30年を経て社員の家族16人が爆死した会社により慰霊碑が建てられたが、再開発を前に16年前に撤去されていた。「身近な場所で戦争の惨禍を伝える新しい形の説明板を」という声を受けた「玉井町空襲を伝える会」が2年前から協議、2006年に1トン爆弾の不発弾が見つかった公園に市が設けることになった。 説明板には、この時に自衛隊員が不発弾を撤去している写真も載せられている。絵は社宅への爆弾投下でできた巨大な穴と、焼夷弾で炎上する自宅を描いた迫真の作品。自宅前に掘った防空壕でで身をすくめる子供たちの姿も描き込まれ、空襲被害の実像がよくわかる。 ◇写真の記録なく、退職後とった絵筆で 澤田さんは1936年(昭和11年)大阪市内で生まれた。中之島で祖父が営む西洋料理店「西洋楼」は繁盛していたが、戦争が進むと金属供出で食器もそろえられなくなり閉店、空襲を警戒して郊外に移った。澤田さんの父は中国、ベトナム方面に長く従軍。豊中の家に母、弟、妹、祖父母らと、大阪大空襲で焼け出された親類を含む大家族で住んでいた。家の周りで自給用の畑を耕し、防空壕を掘った。 6月7日の空襲、空襲警報で壕に駆け込み、続く爆発音に耳をふさいいで恐怖に耐えた。空襲が止んだ後、豊中駅に向かって5分ほど歩くと、爆弾の落下で住宅群が吹き飛び、巨大な穴ができていた。 6月15日には焼夷弾攻撃。目の前がぱっと明るくなると防空壕の裏の自宅が一気に燃え上がり全焼した。一家は無事だったが、近隣の祖母と孫の二人が亡くなった。 戦後復員してきた父が家を建て直し、澤田さんはこの地で育った。広告会社に入社した澤田さんは、関西国際空港の開港や、花と緑の博覧会など大きなイベントも手がけた。退職後は父の後を受けて地元自治会のリーダー役を続けながら水彩画を習いはじめ、身近な風景や静物を熱心に描き続けた。桜並木が続いていた本通や周囲の田畑など消えていった昔の風景も描いたが、しばらくして取り組んだのが空襲の絵。玉井町空襲を記録する写真が残っていなかったことも、そのきっかけだった。自身の体験から半世紀以上経っていたが、9歳の目で体験したすさまじい光景と恐怖の記憶は鮮明で、2枚の絵として甦った。 2013年12月に行われた社宅跡地の再開発に伴う遺跡発掘調査で直径15mの爆弾による穴が見つかり、澤田さんが絵にとどめた事実が確かめられた。 澤田さんは2016年に亡くなられたが、絵は妻の雅子さんが大切に保管。「玉井町空襲を伝える会」の要望を受けて提供いただき、市もこの2枚を生かした説明板を制作した。 除幕式では、長内繁樹市長、花井慶太市議会議長、10歳で空襲の恐怖を体験した「伝える会」代表の中右吉信さんがあいさつし、除幕した=写真。説明板に見入った雅子さんは、「思いを込めて描いた絵が、こういう形で伝えられていくことはうれしいです」と語っていた。 夕方からは近くの保育園に迎えに来た父母らが公園で子どもを遊ばせながら説明板を見て、「この町で、こんなに多くの空襲の犠牲が出たとは知りませんでした」などと話していた。 説明板は小学校の平和学習や、市民グループの戦災ウォークの見学地に予定されており、広く生かされる。 (文・写真 小泉 清) ★「校区探検」から戦争の傷跡学び続ける=2023.6.20取材 ★空襲で爆死の級友 尽くせぬ思いいつまでも=2020..10.18取材 ☆空襲の惨禍示す巨大な穴も発掘=2013.12.14取材 ⇒トップページへ |