★豊中空襲の記憶の絵 公園の説明板に 大阪府豊中市 ![]() |
|||||
![]() ◇爆弾投下による穴、焼夷弾で焼ける自宅も 阪急豊中駅西側の玉井町地区は、昭和初めから大阪市の郊外住宅化が進み、社宅も多数建てられた。6月7日の空襲には地区内だけで39人が亡くなったとされ、15日の焼夷弾攻撃でも犠牲者が出た。 ![]() ![]() ◇写真の記録なく、退職後とった絵筆で 澤田さんは1936年(昭和11年)大阪市内で生まれた。中之島で祖父が営む西洋料理店「西洋楼」は繁盛していたが、戦争が進むと金属供出で食器もそろえられなくなり閉店、空襲を警戒して郊外に移った。澤田さんの父は中国、ベトナム方面に長く従軍。豊中の家に母、弟、妹、祖父母らと、大阪大空襲で焼け出された親類を含む大家族で住んでいた。家の周りで自給用の畑を耕し、防空壕を掘った。 6月7日の空襲、空襲警報で壕に駆け込み、続く爆発音に耳をふさいいで恐怖に耐えた。空襲が止んだ後、豊中駅に向かって5分ほど歩くと、爆弾の落下で住宅群が吹き飛び、巨大な穴ができていた。 6月15日には焼夷弾攻撃。目の前がぱっと明るくなると防空壕の裏の自宅が一気に燃え上がり全焼した。一家は無事だったが、近隣の祖母と孫の二人が亡くなった。 ![]() 2013年12月に行われた社宅跡地の再開発に伴う遺跡発掘調査で直径15mの爆弾による穴が見つかり、澤田さんが絵にとどめた事実が確かめられた。 ![]() 除幕式では、長内繁樹市長、花井慶太市議会議長、10歳で空襲の恐怖を体験した「伝える会」代表の中右吉信さんがあいさつし、除幕した=写真。説明板に見入った雅子さんは、「思いを込めて描いた絵が、こういう形で伝えられていくことはうれしいです」と語っていた。 夕方からは近くの保育園に迎えに来た父母らが公園で子どもを遊ばせながら説明板を見て、「この町で、こんなに多くの空襲の犠牲が出たとは知りませんでした」などと話していた。 説明板は小学校の平和学習や、市民グループの戦災ウォークの見学地に予定されており、広く生かされる。 (文・写真 小泉 清) ★「校区探検」から戦争の傷跡学び続ける=2023.6.20取材 ★空襲で爆死の級友 尽くせぬ思いいつまでも=2020..10.18取材 ☆空襲の惨禍示す巨大な穴も発掘=2013.12.14取材 ⇒トップページへ |