勤労動員の先輩捜しに惨禍の工場へ       

 
   昭和20年6月7日、B29の猛爆を受けた三国航空機業(現・豊中市豊南町西4)。勤労動員された学徒と引率教師計9人が死亡した豊中中学の3年・芳賀洋さんは、先輩の救援に現場に駆け付けた。それから77年、91歳の芳賀さんに戦中戦後の記憶をうかがった。

  
◇本土決戦に向け和歌山の奥地で塹壕掘り

  昭和20年に入ると戦局の悪化とともに、5年、4年に続き3年生も本格的に戦力に組み込まれることになる。5月11日、3年生全員を隊員とする金剛義勇隊が発足し、鉄道を乗り継いで和歌山県海南市から更に奥の村に向かい、21日まで陣地構築に動員された。「紀淡海峡上空をB29を次々飛んでいきました。本土決戦だと塹壕を掘っても実際しかたなかったんでしょうが、当時は『負ける』ということを考えもしていませんでした。酒造会社の倉庫に寝泊まりし、空腹を抱えて食べられるものは何でも食べていました」。

 和歌山から帰った後、3年生も通年で勤労動員されることになり、5月26日から一部は第一航空や宮原操車場など6事業所に出動した。芳賀さんは残留組で校庭の畑を耕し、東豊中の丘陵地・島熊山でウサギ狩りをして食糧増産に努めた。

 6月7日の昼前、卒業生が動員されていた三国航空機業にB29が爆弾を投下し死傷者多数という知らせが入り、芳賀さんらは三国航空まで徒歩で急いだ。「爆弾で店一軒分のような巨大な大きさのすり鉢状の穴ができ、急な斜面のため、底に下りようがありませんでした。血が飛び散り、埋もれたり転がったままの遺体が多数ありましたが、もはや救命のしようがありませんでした」。亡くなった豊中の先生と学徒5人は、通りがかった荷馬車に校長が頼んで学校に運んだが、3人はこの日は見つけられず、芳賀さんらは日没後に引揚げた。救援隊は8,9日も交代で出され、3人の遺体が見つかった。

  ◇終戦、電灯つけられ隠れずにすむ喜び

 7日の空襲で芳賀さんが住んでいた豊中市桜塚地区も爆撃を受けた。芳賀さんの家は被害を免れたが、100mも離れていない桜塚国民学校に爆弾が投下され、校舎が破壊された。豊中はその後5回の空襲を受けた。伊丹空港への爆撃の通り道なので、機銃掃射も度々受けたが「家の庭に掘った防空壕に入ったままだと却って怖かったので、外に出て敵機を見上げていました。こちらに向かってきたら壕に逃げ込みました」。

 8月15日、校庭に集められて玉音放送を聞いた。「おとなしい先生ばかりで、感情を爆発させるような人はいなかった。敗戦で悔しいという気持ちは起きず、夜になっても電気をつけられることが何よりも嬉しかった。戦時中はそれも監視されていたので。そして空襲に痛みつけられてきたので、もう隠れなくてもいいという安心感は大きかったです」。

  ◇成長の時代経て 戦争体験記録呼びかけ

 戦後、中学5年で浪高=浪速高校に合格した芳賀さんは、浪高が大阪大教養部になったことからそのまま阪大に進み、工学部で精密工学を専攻した。父が創業した大手電機メーカーの代理店の後を継ぎたくなかったので会社勤めを目指したが、4年で肺結核を患い大学院に進んだ。兄弟が多くて学業を続けるには、アルバイトが欠かせなかった。家庭教師のほか、米軍が管理していた伊丹空港の草刈り、百貨店の高所での窓ふきなど何でもやった。
 戦時下の豊中中学生の記録「憶念の詩」 関西大が阪大の支援で工学部を新設した時、28歳の芳賀さんはいきなり助教授として送り込まれた。大学院の時から、店の経営と研究の二刀流を続けてきたが、助教授は2年後に退いて事業に注力した。父の店を整理し、新たな会社を立ち上げるなど苦難はあったが、産業用空調機の制御装置の技術が評価された。統制でがんじがらめとなり協同組合のようだった戦時下と違い、一時は毎年桁を超えて業績を伸ばせた。

 復興と高度成長の時代を経て、戦後25年を過ぎたころから、勤労動員で友を失った20期生を中心に当時のことを思い起こす機運が起こった。昭和49年には宮川先生と8人の名を刻んだ「憶念の碑」が豊中市内の墓地の一画に建立された。昭和56年には23期生の牧邦彦さんが豊中中学校での戦争体験の記録の作成を提案。同期の芳賀さんは発起人の一人となり、1983年刊行の「憶念の詩」として結実した。
 
 あの6月7日に駆けつけた工場の爆撃現場の惨状、そして8月15日の夜の明るさは今も忘れない。   (文・写真 小泉 清)

 
 
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