身近な自然の情景を独自の感性で描く俳句が親しまれている細見綾子(1907-1997)。彼女が生まれ育ち、俳句への目を開いた丹波の地(兵庫県丹波市青垣町東芦田)を訪ねた。遺族の寄贈で改修された生家=写真=が公開され山並みに囲まれた風土の中で、彩り豊かな人生をたどることができる。
丹波の風土から出発、ありのままに句作
綾子の父、細見喜市は地主で山林も持ち、芦田村の村長を務めた。父とは11歳で死別、母の理解で柏原高女から日本女子大へ進学。卒業後すぐ但馬出身の東大医学部助手と結婚したが夫は2年後に結核で死去。帰郷してすぐ母を失い、自身も肋膜炎で闘病生活を送った。回診に訪れる医師の勧めで俳句の世界に進み、復員してきた俳人・沢木欣一と再婚。生涯を通して作品を送り出してきた。
綾子は闘病生活の後半は大阪・池田市で過ごし、沢木と結婚後は金沢市に、その後東京・武蔵野市にずっと住んでいたが、盆と正月には帰郷を欠かさなかった。没後は全くの空き家となり老朽化が進んでいたところ、綾子の長男太郎氏の妻・沢木くみ子さんから土地・建物に加え1億円の寄贈を受けた。市はその一部で改修、2018年から市の施設として公開を始めた。
◇思い貫いた90年の生涯伝える
誕生日の3月31日の前にと訪ねたのは、寒さがぶり返した23日朝。長く地域活動に取り組んできた芦田朝子さん(80)に案内してもらった。細見家は本家と中新宅、西新宅の三軒があって「細見三軒」といわれ、綾子の生家は「中新宅」。太い柱や梁の構造を残し、二階が蚕小屋になっている立派な作り。土間や囲炉裏も復元され、糸繰車も置かれて綾子が住んでいた昭和はじめの暮らしを伝えいいる。
奥の和室には、綾子が作詞した母校芦田小学校の校歌の額や丹波の風土を詠んだ句の直筆の書がかけてある。愛用していた筆や硯も。欣一が中国に出征する前に綾子と撮った記念写真、戦地から出された綾子への軍事郵便などが展示されている。
土間に下りるとヒノキの木で作ったタライ=写真=が置いてあった。「明治四拾年壱月新調 主 細見喜一 施行 小寺源四郎」と墨書きされている。綾子の誕生日は明治40年3月31日。「産湯に使うために父の喜一が注文して職人に注文したのでしょう」と芦田さんが説明した。山に囲まれたこの地では、すぐれたに桶職人が多くいた。
裏庭には白い蔵二棟が並んでいる。周囲に広がる田の地主だった細見家の蔵には多くのコメが運び込まれたという。北東方向には細見家の持ち山がある。実家の兄弟の事業の失敗で母が苦しんだ様子が随筆集「私の歳時記」に書かれ、綾子も恵まれた家のお嬢さんというだけではなかったようだ。それでも綾子は谷川のきれいな山は手放さず、東京に家を新築した時は持ち山から切り出した木材をトラックで運び、大工を呼んで建てたという。
◇桑畑広がっていた地の社に句碑
西側には、生家と同じつくりの「西新宅」がある。今は空き家となっているが、綾子の妹の子の姉妹が暮らしていた家だ。随筆集「私の歳時記」の中に、戦争中尼崎の工場に勤労動員され、空襲を受ける劣悪な環境で胸の病気を発病した姪の幸子が、戦後この家で句作をしながら10年以上闘病を続ける様子が、哀惜を込めて書かれている。母屋から張り出して建てられた病室も残り、幸子が春の到来を楽しみにしていた木蓮の花はつぼみを膨らませてきていた。「中の家」と「西の家」の北側には、村人の洗い場となり、カワニナを捕っていた小川が流れていたが、構造改善事業で流れは途絶えていた。
生家を出て、綾子の句碑=写真=が建つ高座(たかくら)神社に連れて行ってもらった。「でで虫が桑で吹かるる秋の風」の句が石に刻まれている。俳句を始めたばかりの1932年の作品。「この社から下は田んぼ、北側の山裾に桑畑が広がっていました」とのことで、句碑を建てるのにふさわしい場所だったのだろう。地元きっての古社の高座神社は「蚕の宮」「蟻の宮」の名で知られる。蟻については、「水不足で困った村人が神社で雨ごいをしていると、蟻が山の中に入っていくので続いていくと小さな池があり、そこで雨ごいを続けたところ大雨が降ってきた」といういわれが書かれ、氏子が奉納した大きな金属製の蟻のオブジェもある。
◇残雪光る国境の山、峠越えて往来
高座の宮から北西の山並みを見た。「青垣」の名の通り四方を山に囲まれた地だが、その中で最も目立つ丹波市で一番高い山が粟鹿山=写真=(あわがやま、962m)。ここだけは斜面の一部に雪が残っていた。「但馬と丹波の国境の最後まで雪の残る山」と綾子も書いている印象深い山だ。「この山の雪が消えたらいよいよ春と感じます」と芦田さん。
最後に、細見家の墓地に寄った。綾子や欣一は東京・府中市の寺に眠るが、父、母、それに若くして亡くなった最初の夫・庄一の墓があり来歴が刻まれている。母は京都府夜久野町(現・福知山市)から峠を越え嫁に来た。細見家に婿入りして綾子の最初の夫となった庄一も、峠の向こうの但馬の出身だ。終戦の年の初冬、大阪・池田市から郷里に戻っていた綾子は「峠見ゆ十一月の空しさに」と詠んだ。「木の葉が落ち尽くす11月になると、からりとして一層よく見える峠」は、綾子にとっても、ふるさとと、山の向こうの世界をつなぐ景色だったのだろうか。
細見家墓地のすぐ近くに住む芦田さんは、幼いころから墓参りに帰郷してきた綾子に出会っていた。「『帰ってきたよ〜』と元気に声をかけてもらいました。父や母に聞くと、牛小屋の牛を見て『ええ牛でんな』とほめてくれたそうです。12歳年下の欣一さんと再婚した時も『みんながしてへんことをしてきました』とはっきり言っておられました。隠し事をしない、すぱっとした人だったんですね」。
「句碑が建てられた時は『風』の同人の方をはじめバスが何台も来ました」という記憶はあるが、芦田さんは当時俳句への関心はあまりなかった。しかし、生家の保存・活用に携わっていく中で「訪ねて来る人にきちんと説明できなくては」と「青垣俳句の会」に入会、句作をはじめ、綾子の作品に親しむようになった。「『そら豆はまことに青き味したり』『来てみればほほけちらして猫柳』のように、丹波の身近な自然や暮らしをありのまま、その通りに表現した作品に惹かれます」と話していた。 (文・写真 小泉 清)
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