大阪、兵庫など6府県の緊急事態解除が決まった翌日の2月27日、シーボルトやケンペルが江戸と長崎の往来で通った室津街道を歩いた。
室津(兵庫県たつの市御津町室津)は、瀬戸内海に面した港町。江戸時代は九州や四国の大名の多くがここで下船、峠を越えて西国街道正條宿(たつの市揖保川町正條)に至る室津街道を使っていた。今回は交通の便から、JR山陽本線竜野駅から室津に向かうコースを取った。
シーボルトも歩き眺めた 春の走りの梅
今回 竜野駅前を西国街道が通り、正條宿のなごりを留める街並みが続く。本陣となった井口家が残り、明治18年に明治天皇が滞在された記念碑が建てられている。西播磨を北から南へ貫く揖保川の渡し場=写真上=の手前あたりが室津街道の起点。ここから南へ袋尻、金剛池と集落を抜けていく。
参勤交代の休憩地だった馬場の集落を過ぎると広い近藤池があり、紅白の梅林の手前に竜野を治めていた丸亀藩が参勤交代の列を迎えた使者場跡の案内柱がある。ここまで播磨の低い山の麓に田畑が広がるのどかな農村で、醤油工場の煉瓦造りの倉庫=写真左=や立派な門構えのお寺も見られる。水害防止に尽力した明治時代の河内村村長の「岩村善六君頌徳碑」があった。揖保川の治水に苦労し、一方で用水や水運で川の恵みを受けて豊かな地域を築いてきたのだろう。
街道沿いでは梅やミモザの花=写真右=も楽しめ、長い行程も苦にならない。日本の植物をヨーロッパに紹介したシーボルトは1826年3月はじめ長崎からの船を室津で下船。精力的に街の様子を観察・記録した後、室津街道で江戸に向かった。「春の走りの花として、道に沿って日本種のホトケノザやタンポポが咲き、梅の花も開いていた」と「江戸参府誌」に書きとめている。
また村々の様子では「絶え間ない輪作…驚くほどの勤勉さで岩の多い土地を穀物の沃野にし、雑草一本もない」と激賞している。
◇峠を越えて山道進めば遠く開ける海
近藤池の先はダイセル播磨工場の用地。旧街道は途切れてしまうので、明治時代にできた切通しの道を上がって鳩ケ峰峠=写真左=に到達。ここから先は姫路藩領となる。
少し先で元の室津街道に戻る山道があったので、登り直した。自然樹林の間の街道=写真右=を気持ちよく歩いていると、眼下にぱっと室津の大浦の海が見えてきた。参勤交代で江戸から下ってきた西国大名の一行は、ここで瀬戸内海を見て「室津で船に乗れば、あとしばらくで国に帰れる」と思ったかもしれない。今は湾内いっぱいにカキの筏が浮かんでいる。
街道は明治以降も使われていたらしく、里に近づくと石積みや井戸の跡が残っている。ただ、ここからの下り道が倒れた竹に阻まれて難航、竹林を避けて遠回りしたため、随分大浦寄りに西にずれた地点で国道に下り立った。室津の街並みに入ったのは午後2時を過ぎ、竜野駅から5時間以上かかっていた。
◇北前船が運んだ羽鰊が播州の綿作築いた
石畳風の街道を南へ進む。北前船の拠点でもあった室津の繁栄は過去のものに。昭和には建物が残っていた本陣の建物も朽ちてなくなり、「本陣 備前屋跡」などと刻まれた石柱だけが跡を留めている。しかし、石畳調の街道に沿っては格子窓の様式を残した郵便局や診療所が並ぶ街並みとなっている=写真。
室津海駅館は廻船問屋「嶋屋」、室津民俗館は豪商「魚屋」の町屋を活用したたつの市の資料館となっていて、建物や残された品々で往時をしのべる。「嶋屋」が北前船で出蝦夷地から運んできた主な産品は、干しニシンの頭と胴の部分だけを残した羽鰊(はにしん)で、播州平野に広がった綿の肥料に使われたとのこと。こう説明してもらって、室津の港町と、室津街道沿いのむらのつながりがわかった気がした。
◇海を往く交流映した室津の梅
街並みを南に抜けると、藻振鼻と呼ばれる御崎の突端に着く。播磨灘を航行した山部赤人の万葉歌で知られる唐荷島の三島が沖合に。南向きの海岸沿いのところどころに梅林があり、花越しに島を望める=写真右。
かつて関西の梅の名所とうたわれた室津梅林の面影はないが、室津と梅のかかわりはずっと古い。大宰府に名がされる途中に紀行した菅原道真が紅梅を植えたと伝えられ、室町時代に来日した朝鮮の外交使節が寺の庭の梅を漢詩に詠んでいる。海を往く交流を感じられる室津の梅は、大規模な梅林にはない魅力がある。
人の乗降はなくなっても、港は漁船でにぎわっている。漁師さんからエソとシタヒラメの味醂干に加え殻付きカキを浜値で分けてもらって港を後にした。
◇自らの手で竹や木切り払い街道復元
2002年3月に初めて室津を訪ねた時、「嶋屋」友の会事務局長の柏山泰訓さんに室津の歴史を生かしたまちづくりをうかがった。そのおりに室津街道を会員の手で復元するプロジェクトを聞いていて、ぜひ歩いてみようと思っていた。
19年たってようやく実行した室津街道歩きの後、改めて柏山さんに尋ねた。プラン通り、同会のメンバーが古い地図を見ながら国道入口から竹や木を切り払って翌2003年春には山中の道を復元し、道標や広場のベンチも設置。その後も年1回は草刈りを続けてきた。
それでも毎年風雨で倒れる竹が道を塞ぐことが多く、今年も3月15日に竹の除去や道標の取り替えを行うという。そして、これだけ重要な歴史街道なのに、たつの市の観光情報で紹介されておらず、歩く人は限られている。「復元した道を維持するには、一人でも多くの人に歩いてもらうことが一番です」と柏山さん。街道歩きの達人らの記録はネットで上げられているので、時間や体力に合わせて、歩いてみてはいかかがだろうか。
(文・写真 小泉 清)
⇒トップページへ |
|