1939年9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火ぶたを切って80年。砲火が初めて交わされたグダンスク市(旧名ダンチヒ)のヴェステルブラッテを訪ねた。
グダンスクはポーランド最大の港町で、第一次大戦前はダンチヒの名のドイツ領。大戦後は国際連盟管理の自由都市となっていたが、ナチスドイツは返還を強く要求していた。ヴェステルブラッテ旧市街から車で30分ほどのバルト海に面した海岸。友好寄港を装ったドイツ軍練習艦が夜明けとともに砲撃をかけた。
◇弾痕残る衛所、兵士の墓石踏み訪ねる小学生
200人のポーランド軍守備兵が応戦、3000人のドイツ軍に抗して1週間死守した。記念地には弾痕を受けた守備兵の衛所=写真上=や宿舎、打ち込まれた砲弾などが残っていて、侵略に抗した史実を伝える。グダンスクはもちろん全国の小学校から児童が訪ねて大戦の歴史を学ぶ場になっているとのこと。ちょうど新学年が始まったばかりとあって、先生に引率されたグループが次々と訪れていた=写真左。ポーランド軍の軍装の兵士が説明をしているグループもあった。
この戦闘で犠牲になったポーランド15人の兵士の墓碑=写真右=が並び、花が捧げられていた。指揮官は戦死には至らなかったが、終戦後の1946年に亡くなる前、この地に眠ることを遺言したそうだ。そして、ハマナスの樹が植えられ花と実に飾られた丘には、侵略に屈せず戦った兵士の顔を刻んだ高い石の記念碑が建ち、海を見下ろしていた=写真下。
その後訪ねたワルシャワでもだが、ポーランドでは第二次大戦から戦後に至る歴史をポーランド人の目で問い直し、語り続けようという思いを強く感じた。ソ連を盟主とした東側陣営に組み込まれた戦後、ソ連が支援を見送ったため占領ドイツ軍に制圧されたワルシャワ蜂起(1944年)、ポーランド軍将校がソ連軍に大量処刑されたカチンの森虐殺事件と、歴史が隠蔽されてきた分、正当な史実を伝えたいという意識が高まるのは自然な流れだろう。
大国に翻弄されてきたポーランドだが、被害者意識というより、こうした流れに自らの力で立ち向かってきたことも強調されている。実際、グダニスクでは守備兵だけではなく、中心市街地の戦いで拠点となった中央郵便局で郵便局員や消防士が頑強な抵抗を続けている。
◇破壊された旧市街復元、ハンザ同盟都市の輝き甦る
こうした戦闘で破壊されたグダニスクの旧市街地は、戦後、残っていた記録をもとにそのままの姿を再建。ハンザ同盟都市として繁栄した街並みがよみがえっている。特産の琥珀細工を見ながら石畳の道を歩き、市庁舎や聖マリア教会の塔に登って見渡すのは楽しい。「高い門」と「黄金の門」の間に建つ「囚人の塔」に上がって東を見下ろすと、メインストリートのドゥーガ通を中心に旧市街が見渡せた=写真右。
第二次大戦の始まりの町グダンスクは、東側体制の崩壊の黎明を告げた町でもある。1980年8月、レーニン造船所の工員だったレフ・ワレサが自主管理労組「連帯」を立ち上げ、これがポーランドの自由化、さらにベルリンの壁の崩壊、ソ連消滅へのうねりとなっていったことは記憶に残っている。
旧市街とヴェステルブラッテの中ほどに旧レーニン造船所があり、連帯運動への弾圧で犠牲となった人々をたたえる連帯記念碑がそびえていた。その後民営化されたグダンスク造船所が経営に行き詰まるなど自由化後のポーランドの歩みは平坦とはいえないが、新しい時代を拓いたグダニスクの人々の輝きは失われない。
(文・写真 小泉 清)=2019.9.19取材
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